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[Terraria]TmodLoaderでmodを導入した世界の「ワールドの読み込み失敗」の修復
[この文章の主目的]
TerrariaでTmodLoaderを使ってmodを導入したワールドが正常に保存できていると思われるにもかかわらず、読み込み時に「ワールドの読み込み失敗」が発生する場合の対処
(全てのワールドが読み込めるようになるとは限りません)
[注意]
修復作業前にセーブデータのバックアップを!
[対象バージョン]
Terraria 1.3.5.2
TmodLoader v0.10.1.4
OS Windows7
[結論]
NBTExplorerで該当するworldデータの.twldファイルを開いて、containersの中にあるitemFramesの項を消す
上画像のカーソルのある部分を消せばよい
上記の作業により、
アイテムフレーム(itemFrames)の中身にmod特有のアイテムが入っているもの(のみ)を消しているので、
中に入れたmod特有のアイテムは消えてしまうが、
ワールドが読み込めなくなることに比べれば被害は軽微
ちなみにバニラ(元々のテラリア)のアイテムが入っているフレームの中身は上記作業では消えない
アイテムフレーム(itemFrames)
[経緯]
テラリアのセーブデータが読み込めなくなった。
セーブ時は何の問題もなくセーブが完了しており、ゲームやOSも異常終了しておらず、データそのものは正常にセーブされていると考えられた。
tmodloaderを利用して幾つかのmodを入れており、そのどれかが原因であることはほぼ間違いなかった。
調べた結果アイテムフレーム(itemFrames)にmod特有のアイテムを貼り付けた事が原因だと判明した。
このような表示が出て読み込みに失敗する
[修復作業手順]
【1】tmodloaderのセーブデータは通常 [ドキュメント] -.> [MyGames] -> [Terraria] -> [Modloader] -> [Worlds]にあるのでその中にある全てのファイルを適当な場所にバックアップする。
【2】修復したい世界の名前の.twldファイル(.wldではない)をNBTExplorerで開く。
【3】containersの中にあるitemFramesの項を消す
カーソルでitemFramesの項を選んで×を押せば消える
【4】データを保存する
以上。
これは、恐らくitemFramesがmodのアイテムに対応していないことが原因だと思われる
そこでそのデータを消してやればよいのだが、そのデータは.twldファイル内にNBT形式で記録されており、minecraft用のNBTExplorerを使って編集してやれば消すことができる
[備考・問題の箇所の見つけ方]
まず始めにワールドデータのバックアップを取る(最重要!!)
.twldファイルをほかの場所に移動してからワールドをロードしてみる
それでロードできればmod(.twld)が原因だと特定できる
.twldを元に戻し、バックアップしてある.wldデータをWorldsフォルダに上書きコピーする。
なぜ上書きコピーするかというと、.twldが存在しない状態でワールドを読み込むと、modデータの無い状態に.wldデータが書き換えられてしまうから。
次ににNBTExplorerを使って.twld内のデータを1項目ずつ削除しながらワールドを起動する
(項目を削除した際はセーブを忘れずに)
起動できたら削除した項目が起動失敗の原因だと特定できる
今回の起動失敗はこの方法で発見できた
terraria 1.3 「no suitable graphics card found」対処
アップデートはすぐに終わり、ゲームが起動すると
「 no suitable graphics card found 」などと言うダイアログが表示された。
少し調べてみると、どうやら古い 「 config.dat 」 というファイルが問題を起こしているらしかった。
そこで
マイドキュメント > My Games >Terraria
にある「config.dat」という名前のファイルを他の場所に移動させ、
「steam」を再起動(重要!!)した後、再度terrariaを起動すると無事、terrariaが起動した。
「クリスマス中止」中止のすすめ
これにはいくつかの理由が考えられる。
ひとつは宗教上の理由、これは合理的なものであり、そしてほとんど唯一、論理的に考えて賛同できる中止理由だ。
そして、その他の理由はおそらく「嫉妬」という言葉に集約できると思われる。
この「嫉妬」は単純な誤解が引き起こしている。
この誤解は幼少期に植えつけられている可能性が高い。
子供はクリスマスにはプレゼントをもらい、そしてケーキを食べる。
これらの行為は全て「受け取る」行為である。
子供の頃のこの体験が「クリスマス=受け取る」行事であると思い込ませてしまう。
クリスマスとは「贈る」行事である。
これはごく単純な算数で説明がつく。
仮に人間が一人ひとつずつ「愛」を持っているとする。
すると「愛」の数は人間の数と同数である事になる。
そして他人の「愛」がほしい場合、誰かから愛を受け取る事になるが、そうなると受け取れる愛の総数が世界から一つ減少する。
それを解消するには自分の持つ「愛」を世界に解き放ち、他の人に贈る以外にない。
さもなくば世界のどこかに誰からも愛を受け取れない人が生じてしまう。
これは単純な算数の問題である。
さらに、これも簡単な算数だが、一人の人間がより多くの人を愛すれば、それだけ多くの愛が世界に供給される事になる。
他人が持つ愛に嫉妬する事は、問題を解決する手段としては間違った方法である。
愛が不要の人間は他人の愛に嫉妬しない。
つまり嫉妬をしている時点で、その人は愛を欲しているのである。
そして他人の愛に嫉妬し、それを消し去ってしまおうとする行為は、結果的に世界の愛の総量を減少させてしまい、ますます愛を受け取れる機会を減らしてしまう。
クリスマスにプレゼントを贈る行為は、世界の愛の総量を増やす行為であり、それこそが最大の目的である。
世界の愛の総量を増やすには、人間一人ひとりが「贈る」愛の量を増やす以外に無く、それを行事に組み込んだものがクリスマスである。
つまり「クリスマス中止」を訴える事は、その行為自体がそれを叫ぶ人を愛からさらに遠ざける結果になり、矛盾以外の何者でもない。
愛に対する嫉妬は愛への渇望に他ならず、愛の総量を減らす言動は非論理的だ。
論理的に考えれば、宗教上の理由以外で、クリスマスを積極的に中止させる理由は無い。
愛に関心が無い者は、他人の愛に嫉妬する事は無くクリスマスを中止させる理由がそもそも存在しない。
愛を欲する者は、世界の愛の総量を減らし自分が愛を受け取れる可能性を減らす行為を行う事は矛盾でしかない。
つまり「クリスマス中止」は中止する以外に選択肢は無い。
それでも「自分は愛を受け取れる事など無い」と考えている人は思い出してほしい、単純な算数の問題を。
世界の愛の総量を増やせばそれだけ愛を受け取れる可能性が増す。
多くの愛を世界に供給してやれば、それだけ愛の総量は確実に増える。
そして誰しも愛する事は可能であり、つまり世界に愛を供給する事が出来る。
クリスマスを中止に追い込みたいと思う人は、その前にまずは誰かに愛を贈ろう。
そうすれば愛が溢れ世界を巡りあなたにきっと贈られるから。
恋と愛と結婚について
恋は欲望であり、愛は贈与であり、結婚は契約である。
恋とは欲望である。
第一目的は相手から何かを「得る」事である。
得られるものが無くなるか、与える事に疲れた時に終わる。
愛とは引力である。
宇宙の根源的な法則であり、それは物理法則の中にも見られる。
電磁気力においては互いの粒子が光子を贈与しあう事により引力を生じている。
重力は重力子の贈与によりその引力が発生していると考えられている。
ここで重要なのは、各粒子は他の粒子から光子や重力子を得る事を目的とはしていない点だ。
贈与とは見返りを求めず、一方的に与える行為であり、これが愛である。
その無償の行為である贈与が、結果として引力を生じ、互いが引き合うことになる。
結婚とは契約である。
何を与え何を得るのかを決める事で、争い事を無くす為の知恵である。
互いが恋をしている状態がもっとも熱量が多い。
少しでも多くのモノを相手から得たいという状態であり、最終的には、より強い者・有利な者がより多くのモノを相手から奪い取り、終わる。
一方が愛し、一方が恋している状態は最も辛い結末が待っている。
「愛する者」が「恋する者」へ一方的に贈与を続ける事になり、早晩与えるものが無くなる。
そして得られるものが無くなった「恋する者」は得らたモノを両手に抱えて去っていく。
「愛する者」は全てを与え、そして何も残らない。
互いに愛している状態、これが最も安定しており、宇宙が目指している姿である。
互いに無償の贈与をする事で、互いに常に贈与を受け続ける状態となり、与えるものが枯渇する事もなく、互いの贈与による引力により、関係は安定する。
贈与と結婚について
結婚とは、上記の「互いが恋をしている状態」や「一方が愛し、一方が恋をしている状態」におけるトラブルを避ける為に生み出された契約行為である。
互いから奪い合って疲弊する事や、一方的に全てを奪い取る事を、法律によって規制しようという行為であり、決して「愛の行為」ではない。
本当に互いを愛しているのならば、結婚などという「契約」など必要ない事は明白だ。
親子は親子である為の「契約」などは交わさない。
結婚が契約である以上、契約を結ぶ意味とその目的についてはっきりと理解しておく必要がある。
その上で契約を交わすのか交わさないのかは個人の自由だ。
結婚とは、贈与可能なものが有限である事によって生じるトラブルを避ける為に考え出された契約行為である
太陽はほとんど無限に、そして無償である「贈与」を人類に与え続けている。
しかし、太陽を愛し、太陽に贈与する者は誰もいない。
いずれ太陽も全てを放出し、小さな星となって、贈与があまり出来なくなる。
それでも太陽はその中の物質を少しずつ分解しながら光の粒として贈与をつづけ、遠い遠い未来には消滅してしまう。
もし、人を愛し続けたいのなら、自分が愛されているかどうかを確認した方がよい。
さもなくば、太陽のように一方的に贈与を続け、いずれ愛も消えうせてしまうだろうから。
今日はこどもの日、この世界に生まれた全ての子供の誕生に祝福と感謝を捧げたい
生まれてきてくれてありがとう
時間軸へのアクセスに対する自由度の違い
この文章を書いているこの瞬間は、私にとってこの時間・この瞬間でしか有り得ないが、読む人間にとっては、時間軸はただの数値に過ぎない。
だから、この文章がいつ書かれたかを気にする人などほとんどいない。
書く人間と読む人間との間にあるこの時間軸へのアクセスに対する自由度の違いを意識して書く必要がある事も有る。
これは勿論文章に限らず、全ての創造に対して言える事だ。
ブログを更新するのは私のとっては久しぶりだが、この文章を読む人にとっては日付の数値の違いくらいの意味しか持たない。
次の更新は、私にとっては今のこの瞬間の時間軸の同一線上にある未来、その一点になるだろうが、これを読む知性にとっては時間はひとつの面として捉える事が出来、その面の中から任意に抽出可能なものなので、時間に対する認識も書く側とは全く異なる筈だ。
書く人間よりも、読む人間のほうが高次元の存在だと言える。
雑記前線
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梅雨時の雨粒のように雑記を降り注がせよう
未来の知性が知りたい情報を記述しよう
未来の知性に向けて書くこのブログでは、その内容は未来の知性に向けた物である事が望ましい。
つまり何億年後かの知性のあり方について考えて、それに沿って書く事が求められている。
そもそも未来の知性は情報を必要としているのかと言う疑問がある。
高度に発達した知性が生み出す文明においては、現在から過去を正確に算出する方法が確立している可能性は大いにある。
これにはその時点での全宇宙の情報が必要になるが、それすら手に出来ている可能性がある。
有限の情報であれば、有限の時間で処理が可能だ。
世界を支配していると思われている確率的振る舞いも、未来の知性にとってはその奥に潜む確定したパラメータを知る事も出来ているかもしれない。
そうなれば宇宙は現在の状態から過去も未来も計算可能となる。
これは即ち、時間を操る事に等しく、望むだけ未来の出来事や発達した文明、そして知性を計算によって出現させる事が可能になると言うことであり、そうなるともはや時間は意味を成さなくなり、望むままにいくらでも文明を発達させる事ができる。
仮に際限なく知性を向上させるべく未来の知性を計算によって正確に出現させ、その知性を更なる計算の為に自動的に利用するプログラムを実行したとすると、加速度的に知性は高まり、おそらく無限の知性を獲得するに至る。
「無限の知性」がどの様なものかは想像も付かないが、宇宙を生み出す事が出来る程度の能力は有していると思われる。
ひょっとしたら、この宇宙はその様な究極の知性が生み出したものなのかもしれない。
だとしたら、このブログに描いている内容も全て、この宇宙が誕生する前から知られており、そしてこの宇宙で生まれた新しい未来の知性もいずれ無限の知性を獲得してインターネットの情報を検索するまでも無く、宇宙全体の全状態を把握する事で私の脳細胞の電気信号の全パターンを完全に解析できるようになるはずだ。
だが、それほどの知性がこの宇宙で出現するまでに何億年かかるか見当も付かない。
少なくとも地球上では10年や100年では出現する事は考えにくい。
しかし、宇宙が誕生して137億年程度経過している事を考えると、或いは何処かにその様な時間や空間を超越した知性が存在している可能性もある。
その様な知性と人類が接触した場合、恐らくそれを理解できる人間は一人も居ないので、奇妙な出来事が観測された、と言う程度の認識に留まる。
向こうから積極的に知性を人類に提供する意思が無い限り、その存在が人類の進歩に影響を与える事はあまり無い。
となると、現在の文明の状態から段階的に進歩する事を予測した上で、不完全であるが今よりはずっと進歩した未来の知性にこのような情報を残す事には意味がある。
とりあえず1000年から1億年程度の未来の知性が必要とする可能性があり、そして歴史的な出来事ではない、21世紀に生きる名も無い一個人としての個人的な情報を記載し続ける事がこのブログの役割としたいとおもう。
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ざっくり書く雑記
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そういえば、今月のテーマを決めていなかったような気がする。
まあいいか。
宇宙の旅のガイドブックのようなものを描く為の能力を色々と考えると、人間が描ける事は必要だが、それ以外に様々な物体が描ける事が必要だ。
見たものを見たままに模写する事ですら十分な能力が無い為に困難であるのに、見た事が無い物を描く事はなおさら困難だ。
見た事の無いものの方が描きやすい場合もあるが、私の考える物は大抵の場合、とてもシンプルになる。
宇宙に進出するほどの文明を有している知的生命体が、それほど非効率な形状を放置しておくとは思えない。
宇宙船にしても、太陽系の外まで楽々飛べる宇宙船を作れるほどの科学技術があるならば、その表面がツギハギだらけだったり、ネジが見えていたり、配管がむき出しだったりする事は、私にとっては想像しにくい事だ。
すると結局最終的には何の特徴も無い球体や立方体など、単なる3次元図形のようなものを描かざるを得ない。
しかしそれでは宇宙船っぽくは見えない。
十分に発達した科学は魔法と区別が付かないと言う言葉があるが、言い換えるなら、十分に発達した物は信じられないほどシンプルになる、と言う事でもある。
宇宙について描く場合、科学技術の発展を冷静に考えて反映させると、全てがひどく安っぽく、おもちゃのように見えてしまう。
しかし21世紀現在、科学的な装置に高級感や本物っぽさを生み出している源は、その複雑さにある。
巨大な核融合発電の実験プラントは複雑怪奇に入り組んだ配管や配線の塊だ。
宇宙ステーションにしても、様々なモジュールが結合して出来ており、非常に複雑な構造になっている。
その様な複雑さこそが、本物っぽさを生み出しているように私には感じられる。
国際宇宙ステーションが、ただの真っ白な球体だったとしたら、それを見て宇宙ステーションだと認識できるだろうか。
21世紀の宇宙の旅を描くならばそれっぽく描く事は容易だが、銀河の向こうまで行く事が出来るほどの文明を人類が有する段階になった時、21世紀の人間が見てそれっぽく見えるもの描くのは非常に難しい。
宇宙船が超光速で移動する場合、人間の反射神経は用をなさないので、その宇宙船は基本的に完全に自動化されるはずだ。
計器類も1枚のスクリーン上にとりあえず表示していると言った感じであり、その数値がどうなろうとも、人間に出来る事はほとんど無い。
人間はただ、目的地を指示して発進の合図をするだけだ。
途中でトラブルが発生したとしても、超光速で移動している場合、人間が手動でそれを解消するのはほぼ不可能だ。
例えば、宇宙船の前に突然障害物が現れた場合、それを手動で回避する事は出来ない。
光より早く移動している場合、障害物を目視した時点で、その物体と衝突しているはずだからだ。
厳密に言えば障害物との衝突を見る前に障害物にぶつかってるはずだから見ることすら不可能で、ぶつかった後に何かあったと気が付くことが出来る。
これは亜空間などの概念を持ち出せばある程度緩和可能だが、それでも、人間の神経が外部から刺激を受けて、それに反応して脳から筋肉に指令を出してそれが筋肉に到達するのに0.1秒は必要だとされており、オリンピックでもそれを基準にフライング判定をしていると言う話だ。
つまり、宇宙を非常に高速で移動するとき、人間が関与できる事はほとんど無い。
星への着陸時に手動で操作する事は可能だろうが、それとて完全に自動化できるはずで、わざわざ人間が危険を冒してまでするような事でも無い。
銀河の外にまで旅をしようとする場合、宇宙空間を移動している間はひどく退屈であり、描くべき事はあまり無い。
描くとすれば、移動していると言う行為についてでは無く、宇宙船内部での人間の振る舞いについて描く事くらいしか出来ない。
そして、宇宙船の内部は、極限まで人間にあわせた造りになっており、地球に居る場合とほとんど何の変わりも無い生活が出来るようになっているはずだ。
それがどのように実現されるかは、色々な方法が考えられるが、脳に直接情報を送り込む方式や、3次元の立体映像を利用して快適な生活を送れるようにする方式、実際に必要なものを全て宇宙船内部に作る事ができるほどの巨大な宇宙船を作る、など、色々と考えられる。
その場合、地球上での生活との違いを描く事は難しくなる。
21世紀の科学技術では、狭い船内にすし詰めになって何ヶ月もじっと我慢しても火星辺りに行くの精々だが、銀河の外まで出るなんて、そんな船では不可能だ。
銀河鉄道の夜などは非常に上手く、鉄道を宇宙に走らせる事で本来ひどくつまらなくなってしまうはずの宇宙の旅を、今の人間にも興味深く分かりやすいものに変換している。
ただ、高度に発達し文明による宇宙空間の長距離移動に関して、それに搭乗する人間の精神面に配慮すると言う名目で、擬似的に列車の旅や船の旅を、宇宙船内で再現していると言う設定にすれば、どの様な移動手段を描くことも可能ではある。
たとえば、21世紀の宇宙船を内部で再現して、それに乗って移動している感覚を搭乗員に感じさせる事も出来る。
そしてその様子を描く事で、21世紀の人間が見ても理解しやすい宇宙の旅にする事も出来る。
本当に高度な宇宙船の表に配管がむき出しになっている事は考えにくいが、雰囲気を出す為に立体映像などで装飾の一部として発生させていると言う設定も可能ではある。
ただ、一つ重大な問題がある。
それは、それを絵だけで説明することが非常に困難だと言う事だ。
可能な限り、文字の説明無しに、誰が見てもそれが何であるかが理解できる事が望ましいと考えているが、この設定を絵のみで説明するのは大変だ。
漫画にしても、映画にしても、説明的なカットを多用しなくてはならなくなる。
そうなるとますます画力が必要になってくる。
それが簡単に描けるようになるのは、一体いつになるか見当も付かないが、必要な事である点は確かだ。
これらの問題に対する究極の答が一つある。
それは、「理屈を捨てる」事だ。
有無を言わせず「こう言うものだ」と言い切ってしまい、理屈を抜きに描き切ってしまう事だ。
結局のところ、ありもしないものを描くわけだから、それでいいのかもしれない。
見る人が納得するかどうかは別問題だが。
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この雑記どいつんだ、オラんだ。
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隣の客はよく雑記を書く客だ
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雑記を描こう。
そう言えば、ここ数日雑記を書いていなかった。
雑記と言っても、具体的に書くものが決まっている訳では無いので、書かなくてはならないと言うものでもない。
今の所、この雑記は主に未来の知性に向けたものであり、私が生きている間ならば、いつ書いても未来の知性にとって、情報としてはそれほど違いが無いので、多少の期間書かない日があってもそれほど問題ではない。
一つ問題があるとすれば、それは私が忘れてしまう事であり、忘れそうな事から優先的に書くのが最も合理的でありそして必要されれている。
つまり、今の所緊急に書かなくてはならない事、つまり重要ではあるけれど忘却してしまう懸念のある事、が特に発生していない事が雑記を毎日書かない最大の理由だ。
一生のうちに書ければそれで良いと言うものについては、今急いで書く必要が無い場合も多いが、しかしこれにも問題がある。
人間の寿命は今の所有限だと言われており、恐らくは平均的な遺伝子を受け継いであるであろう通常の人間である所の私においても、恐らくは有限の寿命を有している物と思われる。
そしてまた、人類の英知、数々の宇宙論は宇宙がいずれ終焉を迎える事を示している。
宇宙の終焉について考えるまでも無く、太陽がいずれ燃え尽きる事は確実であるとされており、これに関して異論を唱える人はほとんど居ないと思われる。
つまり、私個人がたとえ不老不死の存在だとしても、地球や宇宙に終わりが来るのであれば、その中で存在するであろう未来の知性に向けた文章も必然的にその終焉を迎えるより以前に書かなくてはならない事になる。
その様な機会は、忘却してしまう可能性が高いが書くべきもの、が見当たらない今のような機会に書く事が適切であると考えられる。
とは言え、今の所、このブログやその他の場所で書いてきた文章が、どれ一つとして、誰一人にとって、何ら有益であった事が無い事は容易に想像がつく。
そのような物が果たしてどの程度未来の知性にとって有益であるかは完全に未知数だが、現在の私の能力ではこれ以上の事は書けないし、ならばそれらを書かざるを得ないのだから仕方が無い。
そもそも有益とは何かについて考える必要がある。
この文章が何の有益な情報も含んでいない事が確かだとしても、そこには考えるべき点がいつくかある。
まず、誰にとって有益なのか、そしてあらゆる人間にとって何の益も無い事を証明する事は理屈の上からは不可能である、と言う点だ。
例えばこのブログが誰にとっても一切何の利益ももたらさない、と言う事を証明する事は不可能だ。
それを証明するには宇宙に存在する全知性体にこのブログを見せ、その結果全ての存在に何の益をも与えない事を示さなくてはならない。
ましてや、これが未来の話ともなると、少なくともこのブログのデータが人類のあらゆるデータベース上から消え去る瞬間までを考慮しなくてはなら無くなるので、これは完全に予測不能だ。
つまり今書いているものが何の益ももたらさない事を証明する事が不可能である以上、書く事による益が存在する可能性を考えて書く事は何ら間違えでは無いと考えられる。
そして、有益の概念は果たして普遍のものか、という問題も同時に存在する。
このブログを未来の知性に向けて書いているのは、未来の知性にとってこのブログの情報が有益であると私が分かっているからでは無く、今の所、有益な点は全く無いとしても、未来の世界では何らかの益が生じているのではないかと言う推測に基づいて書いている。
21世紀の人間にとってはゴミのような文章でも、1億年後の知性にとっては貴重で有益な情報となりうる可能性は大いにある。
そして、次に考えるべき点は、そもそも有益である必要があるのか、と言う点だ。
これは有益とは何かと言う問いにも関連するが、そもそも有益である必要があるのか、有益でなくてはならないのか、という事を考える必要がある。
有益であるほど良いのであれば、貨幣経済下において最も有益な物は最も高価なものであり、貧乏人よりも金持ちの方が社会にとって価値が高く有益であると言う事を意味する。
貨幣経済を否定する気も無く、高価なものにはそれなりの益がある事も多いが、では有益である物のみが存在することをよしとされ、それ以外の存在は無益で無価値で存在意義が無いと言う事になるのか。
そう考えると、トップ以外は全て無価値と言う事になり、世界には一人の人間、一つのものが存在するだけで良いと言う事になる。
有益かどうかのみを追求するとほとんどすべての存在が無価値になってしまう。
だから自分のすること全てが何らかの益を生み出さなくてはならないと言う価値観そのものが自分自身を苦しめていると考える事ができる。
有益でなくたっていいじゃないか、そう考える以外に今の所選択肢は無い。
ただし、可及的速やかに直接的な利益を得る必要がある場合はその限りでは無く、その際に於いては最大限有益である事を追求する必要がある。
今の所、私自身には何ら有益な点が無い事は明らかであり、有益な何かを提供する能力が無い事も容易に推測できる。
その為に長期計画を立てそれらの提供が可能になる程度に能力を向上させる必要性がある。
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pixivchatで描いたもの
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雑記の玉手箱や
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2013/04/28~2013/05/04のブログ総閲覧回数 2
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あれから何度かpixivchatと言うモノを試してみた。
といっても、チャットが目的では無く、描いた後でその経過を動画として再生できるので、その機能を利用する目的で描いてみている。
普段描いたモノを見返す事はあまりないが、動画として見返すことで、客観的に自分の能力が見えてくる。
専用のペイントソフトに比べると線の描き味が良くなかったり全体的に最小限の機能しか無いが、それでもどの程度のものが描けているかは分かる。
pixivchat
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