寒い日には雑記でもしよう | ゆうきの話

寒い日には雑記でもしよう






室温 16.2


たぶん今年一番の室温の低さだ。

都内のマンションなので、これ以上下がる事も無いとは思うが、20度を下回ると、手がかじかんでキーを打ちにくくなる。

しかし、ここ何年もしもやけになった記憶が無い。

冬には手袋をして外出するようにしているので、その効果かもしれないし、体格の問題で、子供の頃より体積が増えたので熱が下がりにくくなっているのかもしれない。

そのうち南の島でも買って、そこで寒さに震える事なく、沢山の寝子たちと暮らしたい。

火星などの他の惑星への移住でも良いけど、それはまだしばらく時間が掛かりそうなので、南の島で寝子と暮らすのが一番現実的かもしれない。

しかし、人類が開発しなくても、いつの日か地球外生命体がUFOにでも乗ってやってきて、火星でも木星でも、それこそ他の銀河にまで連れいってくれる、と言う可能性を私は未だに諦めてはいない。

諦めなければ必ず叶う、とは言わないが、あきらめなくてはならない理由が無いものに関しては、あきらめる必要は無い。

そして、およそほとんどのものは諦める必要は無い。少なくとも私の求めるものについては。

例えば、重力を制御して空をふわりと飛ぶ装置にしても、それが存在し得ない理由は何一つ無い。

単に人類の科学技術が及ばないだけであり、ならばそれはいずれ解決される。

あとは時間の問題だ。



こういうブログは、大抵の場合、何が書かれているかよりも、誰が書いているかの方が遥かに重要だ。

ブログに関わらず、ほとんどあらゆるものがそうかもしれない。

ある日まで真筆とされ美術館に飾られ、多くの人に見られていた絵画も、ひとたび偽物とわかると、それまでありがたがって見ていた人間たちも見向きもしなくなる。

描かれているものそのものでは無く、誰が描いたかが如何に重要かは、そうした事からも明らかだ。

これは文章についても言える。

歌にしても、どんなに上手くても、それだけではダメだ。

とは言っても、やはりある程度の能力は不可欠で、どんな著名な文豪の書くブログでも、内容があまりにもひどい場合は、やはりそれなりの評価しか受けない。

評価と能力が均衡する事が一番幸福である事は確かだが、最近は能力の定義が曖昧である事が問題の根本にあると考えるようになっている。

単純に数値化出来ない能力と言うパラメータをどうすれば計ることが出来るのか、ほとんど分からない。

能力の優劣を客観的に判定できなければ、客観的な評価方法が存在しない事になり、何をどうすれば良いのかがわからなくなる。

実際、経験則的に、一番重要なものは「運」である、と言われているが、それが本当ならば、人間は運命に支配され、自分の力では何事も成す事が出来ない、と言う事になってしまう。

しかし、本当に運だけで世界が動いているようにはどうしても思えない。

思えないが、それを客観的に証明する方法が分からないので、何となく、としか言いようが無いが。

能力とは何か、それに伴う評価とは、一体何を基準に評価しているのか、それがわからなければ、対処のしようが無い。

と言うようなことを考えてはいるが、今の所これと言った答えは得られていない。

そして、この疑問に対する答えは

「能力を客観的に示すパラメータが実在し、それを知る方法がある」

「能力を客観的に示すパラメータが実在するが、それを知る方法は無い」

「能力を客観的に示すパラメータなど存在しない」

という3つのうちの一つと言う事になる。

そして、下の二つは事実上同一であり、パラメータを知れなければ、存在したとしても、何の意味も無い。

そして、存在しない事を証明するのは不可能なので、人間が取れる唯一の道は、能力を客観視出来るパラメータを探し続ける事だけだ。

その探索の過程で、パラメータの存在の有無の確率をある程度知れるかも知れないが、結局方法を発見するまでは何も分からないに等しい。


今の所、面白い文章を書く能力と言う点においての、客観的なパラメータと言うものを私は見つけていない。


これはただの勘だが、恐らくパラメータと言うものがあったとしても、それは単純な数値に置き換える事はできず、ある種のデータの塊として得られると思う。

その塊の構造が、能力の優劣を決定すると思われる。

脳の構造は複雑な三次元立体構造をしているが、それに似た、若しくはより高次元の情報の集合体が能力を示パラメータの正体であると思う。

この勘が正しいとすると、たぶん簡単に個々人の能力を客観的に知る方法は確立出来ないと考えられる。


知ることが出来なければ、それを元に能力を高める確かな方法も存在しないと言う事になる。

「より音程の正しい歌声」とか「より円に近い図形をフリーハンドで描く」事は訓練などによって可能だろうが、それが具体的に「能力」とどんな関係があるのかが分からない。

評価とは能力によってなされると仮定するならば、その能力を向上させる事は必要不可欠な事だ。

個々の能力、「より丸い円を描く」等が、能力とどう結びついているのかを知れれば色々と捗るが、それは今の所不明だ。


このブログは、未来の知性に向けて書かれている。

それは、21世紀の人々に向けて描く術を知らない、と言う事も大きな理由の一つだ。

遥か未来の知性ならば、単純に過去のデータとして処理するだろうが、21世紀の人はもっと複雑な目的を持ってブログを見ると思われるので、そのような人に向けて何をどう書くべきなのか、それについてはほとんど何も分からない。

これは悩みなどでは無く、単純に分からない、というだけの事だ。

世界の事などほとんど何も分からない。

分からない事など大した事ではないが、知りたいとは常に思っている。



などと書いてはいるが、そんな理屈は全くどうでも良い事だ。

理屈なんてものは丸めて部屋の隅にでも転がしておけばよい。

必要になった時に、仕方なく拾い上げて嫌々使うくらいでちょうどいい。


荒唐無稽と思われる夢やら物語なんかが、見ていて一番面白い。

隅々まで理屈詰めの世界も、それはそれで美麗で好きだけど。