春分来たりて桜咲く | ゆうきの話

春分来たりて桜咲く





少しせっかちな春。

今年は桜の開花がかなり早い。

東京は10日ほど早いらしい。

咲く事に変りは無いのだから構いはしないけど。



「散る桜 残る桜も 散る桜」

花見を楽しもう。


散らぬ桜に春は要らぬ。


散らない桜に咲かない桜






情報

3/1から3/24までの総アクセス数 17

室温 27.2度

湿度 50%







大分暖かくなって来たので、キーボードを押す指も冷たくなることがなくなってきた。

ほぼ冬眠から覚め、指は活動を始めているが、脳の活動は季節とは関係なく、ほぼ横ばいの活動状況を保っている。


ここしばらく絵を掲載していない。

理由は簡単で、描くべきものが無いからだ。

寒さで手が動かなかったと言うのもあるが、それは些細な事だ。


幾つか気が付いた事がある。

まず、何かを描くには、それを描く目的が必要だと言う事だ。

まずはその目的を定め、その目標を達成できる方法を見つけ出し、目的を達成できるものを作り出す、というのが当然の過程だが、残念ながらその最初の過程である目的がいまひとつはっきりとしない。

このブログの目的は「未来の知性に向けた21世紀の人間の思考のデータベース」だが、これもすでに無数のデータが提供されている状態なので、どうしてもしなくてはならないと言うものでも無い。

それと同じで、私の行うあらゆる行為が既に様々な形で世界に提供されつくしており、その劣化版、よくて精々同等品程度のモノの提供がやっとではないかと考えている。

とは言っても、それが何らかの存在意義を持つのならば、劣化品でも同等品でも全く構わないのだが、残念ながら今の所、その様なものを生み出せた事もなく、生み出せる見込みも無い。

可能性と言うのは常に存在し、それが可能である事を完全に否定する理由は無いが、肯定する理由も、今の所無い。



面白いとは何か、ここ数十年考えているが、よく分からない。

それは、面白いと言う言葉の範囲が広すぎる為だ。

「面白い○○」ならば考える事が出来かも知れないが、面白いと言う感覚そのものは正体がつかめない。



面白がって描く事は容易だが、面白く描く事は困難だ。