擬似自由意志 | ゆうきの話

擬似自由意志


今日も、自由に書こう。

人間の持つ自由意志は表面的なものではあるけど、真の自由と区別が付かないのだから、これも自由と呼んでも良いと思う。

宇宙誕生のずっと前から、私はこの文章を書くことが決まっていた。

しかし、これを書くと言う事を、過去の事象から推測する事が今の人間には出来ないので、この文章は自由に書かれていると考えても問題無い。

過去との因果関係を証明出来ず、本人も自由に書いていると実感しているのだから、これは自由以外の何ものでも無いと見えても当然であり、否定する理由も無い。

しかし、今のこの宇宙では、計算外の現象が勝手に起きていると言う証拠は無く、おそらく厳密に物理法則に従って全ての出来事はおきていると考えられている。

宇宙が正確に計算できる事象のみで構成されているならば、その始まりの瞬間に宇宙の終焉までの全素粒子の挙動は決定している筈だ。

真の自由意志が存在することを証明するには、自由意志があらゆる物理現象の影響を受けずに発生する事を証明する必要があり、恐らく人間にそれを証明する事は出来ない。

宇宙の外に飛び出して、この宇宙の実体を理解し解析できる文明を築く事が出来れば、あるいは証明可能かも知れないが、それはまだ当分先の話しだ。

それまでの間、自由意志は「自由では無いと言う証明が出来ないので自由意志はあると言っても反証されない」という消極的な方法でしか支えられない。

それでも、例えば擬似乱数でも十分に実用的な乱数であるように、擬似自由意志でも、人間にとっては十分に実用的なので問題は無い。

この文章は書かれる事は決まってはいたが、書かれる事を知っていた人間は一人もおらず、恐らくこの宇宙のいかなる文明を持つ種族によっても、正確には予測されては居なかった筈だ。

この宇宙で生きるなら、そのくらいの自由で十分だ。


ただ、物理法則に関係なく人間に自由意志を発生させる何かが存在し、宇宙の外から人間に干渉している可能性を否定する事も出来ない。

その場合、この意志は人間の意志では無く、その宇宙の外の何者かの意志である、と言う事になり、それを人間の意志と呼べるのか、と言う事が問題になり、その何者かにとっては自由意志であっても、人間にとっては自由意志とは呼べない、と言える。

どこかに自由意志は存在するかもしれないが、人間が自由意志を持っているかどうか、とは別問題だ。


これを読むであろう未来の知性は、こんな簡単な問題はとっくに解決しているかもしれないし、もしかしたらそれ以前にそんな事に関心すらないかもしれない。

しかし、昨日寝る前にそんな事がふと頭をよぎったので、とりあえず書く事にした。



閃きや直感、と言うものが脳で生じるのならば、それが発生する原因が存在するはずだ。

そして、脳は外部からの刺激によって様々な反応を示す。

ひらめきや直感は、誰もが常に感じ続けているのだが、その発生頻度があまりにも高く、そしてすぐに忘れてしまうのではないかと考えている。

脳はこの瞬間にも膨大な量の刺激を受け、それに反応している。

そして、その刺激から、一定の確率で、直感やひらめきと言った、論理の飛躍が生じる。

しかし、その飛躍は外部の刺激等から生じた、いわば脳の誤作動のようなものなので、すぐに訂正され、記憶の中から消し去られる。

そしてその様なひらめきが常に膨大な回数生じており、それを半ば自動的に修正排除する仕組みが脳には備わっていて、その為に人間は理性を保てている。

しかし、外部からの刺激をある程度減らし、そして脳の誤作動に気が付くように自分の意識を注意深く観測すれば、普段は消し去られてしまう面白いものが見つけ出せる。

それは、お風呂に入っている時だったり、眠っている時だったり、瞑想している時だったり、そんな時だ。

そして、そんな時にこそ色々な事が頭の中にひらめく。

脳の誤作動を見逃さず、それを積極的に利用すれば、もっと面白い事も出来ると私は思う。



こんな事を書いても、特に何の意味もないが、それでも書いている瞬間だけはつまらなく無いので、それだけでも書く価値はある。