嘘を付く努力をしよう
と、言うわけで、4月1日は嘘を付く努力をする日だ。
何故この日に嘘をついてもよくなったのかは不明らしいが、嘘を付くのは意外と大変だ。
もちろん簡単な嘘ならば容易につく事が出来る。
「昨日、宇宙人のUFOに乗って木星に遊びにいったよ」
これは明らかな嘘だが、実はこれが嘘だと言う事が嘘である可能性もある。
嘘のような事が現実では起きるので、現実に起こりそうな嘘を付くと、嘘っぽく見えてしまう。
嘘を付くのは大変だ。
今日は嘘の上達を目指して頑張ってみよう。
宇宙誕生は無かった
宇宙とは、時間と空間と言われており、その宇宙の誕生があるならば、その前が存在するはずであり、その以前には時間も空間も無かったはずである。
時間も空間もなければ宇宙は一体どうやって誕生できたのだろうか。
ビッグバンが起きたとしても、それが起きるにはその為の場が必要だ。
宇宙とは時間と空間を表すものであるのならば、それが無いと言う事は何物も存在しないはずだ。
と、ここまではよくある考えだが、この疑問は根本的かつ簡単な間違えが元で生じている。
それは宇宙の定義だ。
宇宙の定義が曖昧なために、このような簡単なミスが生まれる。
宇宙の定義を「時間と空間」では無く、「あらゆる事象そのもの」と定義すれば、宇宙の誕生前を問う必要はなくなる。
ビッグバンと言う事象も宇宙であれば、それが起こる前の量子の海の揺らぎも宇宙であり、宇宙の定義を空間や時間などと狭める事が根本的にして初歩的な過ちなのだ。
つまり、宇宙は誕生するものでは無く、消え去るものでも無い。
宇宙とは「出来事」であり、空間や時間や物質は、その出来事の副産物でしか無い。
人間にわかるのは、その出来事によって生じた空間や時間や物質を見ながら、何故その出来事が起きたのだろうと推測する事だけで、その出来事が何故起きたのかを知る術は無い。
ただ一つ言えるのは、この空間や時間と言うものは単なる宇宙の副産物に過ぎないと言う事だ。
うそつきはうそつきか考える
うそつきは嘘をついていると言う自覚があるうちはうそつきだが、その自覚が無い場合、はたしてうそつきと言えるのか。
たとえば、「りんご」と言う言葉を発した瞬間に、それはあの果物の林檎とは違った概念上の存在にしてしまうので、あの果物を「りんご」と言う事は真実ではないと言う事になる。
では「りんご」と言ってあの赤い果物を指差した人間が嘘をついていると言えるのか。
林檎を指さして梨と意図的に言うのは嘘をついている事になるが、20世紀梨を見て青林檎と間違えた場合、それを青林檎と言った人間をうそつきと言えるか。
20世紀梨を青林檎と本気で間違えた人間と、自分が嘘をついていると言う自覚が無いうそつきとの違いは何処にあるのか。
両者とも、自分が嘘をついていると言う自覚は無く、自分の認識を正しいと信じているが、事実は違う。
嘘と自覚している者はうそつきと言えるが、嘘と自覚していない者をうそつきとは言えない。
それは単に「間違えている人」でありうそつきでは無い。
うそつきが本当にうそつきかを見破るのは困難だ。
なぜなら、その嘘が単なる間違いから生じたものなのか、意識的に嘘をついているのかを正確に判別しなくてはならないからだ。
「りんご」と言ってあの果物を指差している人間に嘘をつくつもりは全く無いはずだ。
しかし、あの果物を「りんご」という言葉で表現した瞬間に、それは間違いになる。
あの果物を「りんご」と言う人間はつまり、全員間違えている。
しかし嘘をつく意思は無い。
つまり言葉を使う人間は、多かれ少なかれ、全員間違っている。
間違ってはいるが、それでもうそつきとは言われない。
うそとは、意識的に間違った情報を伝える行為であり、無意識な過ちは含まれない。
目の前にいるうそつきと思われる人物が、自分の言動を本気で信じており、偽りであるとの自覚が無い場合、その人をうそつきとは言えない。
うそつきになりたくなければ、自分の言う事全てを自分で信じて疑わなければよい。
その状態では少なくともうそつきでは無く、せいぜい何かを間違っている愚か者、であり、そしてまた、間違いを犯さない人間は一人もいない。
全ての人は、うそつきか愚か者かのどちらかである。
または両方。
1985
このブログは、実は1985年に書いている。
ではどうやって掲載しているのか。
それは簡単で、この文章そのものは1985年当事に紙のノートに書いており、それを適宜ブログへ打ち込んでいるだけなのだ。
細かい固有名詞など、例えば「ブログ」などの言葉は書き換えているが、それ以外は一字一句1985年に書いたノートの内容をそのまま打ち込んでいる。
1985年当事、未来の世界を予測しつつ、その時に実現するであろう事柄等を大学ノートにひたすらに書き込んでおいたモノを、今こうやってブログとして発表している。
このブログで時事ネタを扱わないのはその為で、流石に全てのニュースに適合する文章を網羅しているわけでは無いので、やや時代を感じにくい文章となっているかもしれない。
このノートはまだ膨大に存在するので、当分はブログへの書き込みは続くと思う。
今日は4月1日なので、上の文章は根も葉もないうそっぱちだが、実はこの中に一つだけ本当の事が書かれている。
それは来年の4月1日にでも発表しよう。
何故この日に嘘をついてもよくなったのかは不明らしいが、嘘を付くのは意外と大変だ。
もちろん簡単な嘘ならば容易につく事が出来る。
「昨日、宇宙人のUFOに乗って木星に遊びにいったよ」
これは明らかな嘘だが、実はこれが嘘だと言う事が嘘である可能性もある。
嘘のような事が現実では起きるので、現実に起こりそうな嘘を付くと、嘘っぽく見えてしまう。
嘘を付くのは大変だ。
今日は嘘の上達を目指して頑張ってみよう。
宇宙誕生は無かった
宇宙とは、時間と空間と言われており、その宇宙の誕生があるならば、その前が存在するはずであり、その以前には時間も空間も無かったはずである。
時間も空間もなければ宇宙は一体どうやって誕生できたのだろうか。
ビッグバンが起きたとしても、それが起きるにはその為の場が必要だ。
宇宙とは時間と空間を表すものであるのならば、それが無いと言う事は何物も存在しないはずだ。
と、ここまではよくある考えだが、この疑問は根本的かつ簡単な間違えが元で生じている。
それは宇宙の定義だ。
宇宙の定義が曖昧なために、このような簡単なミスが生まれる。
宇宙の定義を「時間と空間」では無く、「あらゆる事象そのもの」と定義すれば、宇宙の誕生前を問う必要はなくなる。
ビッグバンと言う事象も宇宙であれば、それが起こる前の量子の海の揺らぎも宇宙であり、宇宙の定義を空間や時間などと狭める事が根本的にして初歩的な過ちなのだ。
つまり、宇宙は誕生するものでは無く、消え去るものでも無い。
宇宙とは「出来事」であり、空間や時間や物質は、その出来事の副産物でしか無い。
人間にわかるのは、その出来事によって生じた空間や時間や物質を見ながら、何故その出来事が起きたのだろうと推測する事だけで、その出来事が何故起きたのかを知る術は無い。
ただ一つ言えるのは、この空間や時間と言うものは単なる宇宙の副産物に過ぎないと言う事だ。
うそつきはうそつきか考える
うそつきは嘘をついていると言う自覚があるうちはうそつきだが、その自覚が無い場合、はたしてうそつきと言えるのか。
たとえば、「りんご」と言う言葉を発した瞬間に、それはあの果物の林檎とは違った概念上の存在にしてしまうので、あの果物を「りんご」と言う事は真実ではないと言う事になる。
では「りんご」と言ってあの赤い果物を指差した人間が嘘をついていると言えるのか。
林檎を指さして梨と意図的に言うのは嘘をついている事になるが、20世紀梨を見て青林檎と間違えた場合、それを青林檎と言った人間をうそつきと言えるか。
20世紀梨を青林檎と本気で間違えた人間と、自分が嘘をついていると言う自覚が無いうそつきとの違いは何処にあるのか。
両者とも、自分が嘘をついていると言う自覚は無く、自分の認識を正しいと信じているが、事実は違う。
嘘と自覚している者はうそつきと言えるが、嘘と自覚していない者をうそつきとは言えない。
それは単に「間違えている人」でありうそつきでは無い。
うそつきが本当にうそつきかを見破るのは困難だ。
なぜなら、その嘘が単なる間違いから生じたものなのか、意識的に嘘をついているのかを正確に判別しなくてはならないからだ。
「りんご」と言ってあの果物を指差している人間に嘘をつくつもりは全く無いはずだ。
しかし、あの果物を「りんご」という言葉で表現した瞬間に、それは間違いになる。
あの果物を「りんご」と言う人間はつまり、全員間違えている。
しかし嘘をつく意思は無い。
つまり言葉を使う人間は、多かれ少なかれ、全員間違っている。
間違ってはいるが、それでもうそつきとは言われない。
うそとは、意識的に間違った情報を伝える行為であり、無意識な過ちは含まれない。
目の前にいるうそつきと思われる人物が、自分の言動を本気で信じており、偽りであるとの自覚が無い場合、その人をうそつきとは言えない。
うそつきになりたくなければ、自分の言う事全てを自分で信じて疑わなければよい。
その状態では少なくともうそつきでは無く、せいぜい何かを間違っている愚か者、であり、そしてまた、間違いを犯さない人間は一人もいない。
全ての人は、うそつきか愚か者かのどちらかである。
または両方。
1985
このブログは、実は1985年に書いている。
ではどうやって掲載しているのか。
それは簡単で、この文章そのものは1985年当事に紙のノートに書いており、それを適宜ブログへ打ち込んでいるだけなのだ。
細かい固有名詞など、例えば「ブログ」などの言葉は書き換えているが、それ以外は一字一句1985年に書いたノートの内容をそのまま打ち込んでいる。
1985年当事、未来の世界を予測しつつ、その時に実現するであろう事柄等を大学ノートにひたすらに書き込んでおいたモノを、今こうやってブログとして発表している。
このブログで時事ネタを扱わないのはその為で、流石に全てのニュースに適合する文章を網羅しているわけでは無いので、やや時代を感じにくい文章となっているかもしれない。
このノートはまだ膨大に存在するので、当分はブログへの書き込みは続くと思う。
今日は4月1日なので、上の文章は根も葉もないうそっぱちだが、実はこの中に一つだけ本当の事が書かれている。
それは来年の4月1日にでも発表しよう。