ざっきをたしなむ | ゆうきの話

ざっきをたしなむ

三寒四温。

4月になった。


子供の頃の疑問は、結局いつまで経っても解決されない。

それには様々な理由があるが、科学技術の問題、理性の限界、問いそのものの間違い、など様々だ。

そして、答えらしきものもたまに目にする事もあるが、それが本当に答えなのかは分からない。




運の量

幸運と不運の総量は等しい、という考えがあるが、単純に考えれば、それは完全な誤りだ。

サイコロで1の目が出たら、その次にサイコロを振った時、1の出る確率は低くなるだろうか。

もちろん、1の出る確率は常に1/6であり、1億回連続で1が出た後も、次に1が出る確率は1/6である。

このごく単純な理屈からすれば、幸運と不運の総量が等しいなどとは考えられない。

もし、幸運と不運の量が等しいのだとすれば、それは、単純な確率以外の要素が関わっていると言うことであり、それは「運」ではない。

いわゆる「幸運」が続く人には、「運」以外の理由が絶対に存在する。

それはサイコロの例からも明らかだ。

いわゆる「不運」が続く人には、「運」以外の理由が絶対に存在する。

それはサイコロの例からも明らかだ。


サイコロは常に1/6の確率で目が出る。


単純な「運」で説明出来ない幸運や不運には、必ず理由が存在する。

そして、それは単に理由が説明出来ないので「運」と言ってしまっているに過ぎない。

幸運が続くからと言って恐れる必要は全く無い。

それは丁半博打の結果でも、総量が決まっているものでもない。

不運が続くからと言って油断してはならない。

それは丁半博打の結果でも、総量が決まっているものでもない。

そこには必ず原因となる何かが存在し、そして変える事が可能なはずだ。

人間には単純な「運」のサイコロの出目を調節する事は出来ない。

しかし「幸運」と呼ばれる現象を引き起こす方法は必ず存在する。

そしてそれは、決してオカルトでは無く、注意深く日常を観察していればその糸口が必ず見つかるはずだ。

ただし、それを万人向けに簡単に説明する事など出来ない。

世界はそんなに単純ではない。

その方法は自分で見つけるしかない。

すべての人間は「オリジナル」であり、他と代替出来ないのだから。




しかし、分かりきった事を書くだけでは面白い文章とは言い難い。


書く行為そのものが面白い事になってしまっているので、その内容ついて、面白いかどうかが、冷静に判断しにくい。



そんな事はどうでも良いので、とりあえず、何か書いてみよう。





おもしろい

普段面白いと感じている事を考え、それを自分で作り出せば面白いものが出来上がるはずだ。

面白いと感じている事は・・・、パッとは思いつかない。

音楽やゲームとかは面白いと感じるけど、それはブログで文字にして表すことが出来ない。

評論のような事をすれば、間接的に書く事は可能だけど、音楽そのものを文字で表す事は出来ない。

詩を書いて、それによって音楽を部分的に表現すると言う事は可能かもしれないけど。


しかし、詩ほど人気の無い文章も他に無いと思う。

私自身、他人の書いた詩を積極的に読むという習慣は無い。

音楽を表現する方法の一つとして詩を使うのは有効かも知れないが、だからと言ってそれが音楽と同じ位面白いかといえば、私にとっては、そうとは言えない。

面白くなければ、ほとんど書く価値は無い。

このブログは未来の知性のデータ源として存在させる意義を感じているが、もう少し面白みのある文章に出来れば、21世紀においても存在意義が出てくる。


どんなにつまらない文章でも、山ほど書けばそのうちの一つ位は面白いものが見つかるかもしれない。

今の所、一度も面白い文章と言うものを書けた事はないが、そのうち書けるかもしれないので、そのうちが来るように、色々書いてみよう。

面白いものが出てくる為に。




今、ふと思いついたことがある。

それは、人間はそれほど面白い事を必要としていないのではないか、と言う事だ。

日常生活を考えてみると、それほど「面白い事」に浸っているわけではないが、それでも特に支障なく生きている。

私の場合も、衣食住が満たされていれば、とりあえず生きて行く事ができる。

もちろん、面白い事があれば、より良いとは思うが、面白い事はあくまでおやつのようなもので、それが無くては死んでしまうと言うものでも無い。

まず必要なのが生活するのに必要なもの、そして面白い事は、それらのついでにあれば楽しいと言う程度のものだ。

そして、おやつはすでに山のように存在していて、供給過剰もいい所で、特にネット上には無料の「面白い」が膨大にある。

そんな中で、新たなる「面白い」をわざわざ作り出す必要があるのか。

この前のブログにも書いたが、あえて面白く無い事を書いて見ると言う事も、ある意味面白い事のような気がする。




世界には二つの事柄がある。

それは、自分の事とそれ以外の事だ。

それ以外の事はそれ以外の人が書くと思うので、今私が書くべきは、自分自身に関する事だ。

と言っても、日記を書くと言うのでは無く、この目から見えた世界について、そしてこの脳内にある世界について書く事が良いと思う。

そして、それははっきり言って面白い事では無い。

でも、面白い事ならばこの世界に溢れているのだから、面白く無い事が少し増えた所で、この世界がつまらなくなる訳ではないから、とりあえず書こうと思う。




正論

昔から正論を言う事が好きだったが、最近はそれに疑問を感じつつある。

最大の理由が、「正論」が攻撃的で独善的だからだ。

確かに正しいと思われる考えは存在すると思うし、それが嫌いでは無い。

しかし、正論ばかりの世界になると、とても余裕が無い世界になる気がしてならない。

まるで正論と言うプログラミング言語で書かれたシミュレーションの世界のようで、正しくて生きにくくてつまらない世界になってしまう気がしてならない。

厄介な事に、正論と言うものはじつに正しい。

理屈の上では全ての考えは正論に行き着くといっていい。

そして、正論と言うのは論理的にも、そして道徳的にも正しく、一見、最適解のように見える。

しかし、人間は最適解に最適化された存在ではない。

時には理屈に合わない事もしたくなるし、正しければそれで良いと言うものでもない。

正論しか通用しない世界になったら、私は死んでしまうと思う。

存在自体が正しくないから。

それなのに正論を考え、それを発している。

時には正論も必要な事もあるが、そればかりに縛られると、自分自身の存在を肯定出来なくなる。

正論と言うのはそういうものだから。

だから、まじめな人間ほど正論を考え、それを自分に向けて発し、そして憂鬱な気持ちになる。

そして、正論を他人にもぶつけ、そしてぶつけられた相手も憂鬱になる。

それは当然である。

人間は正論だけで説明できるような簡単な存在ではないのだから。

憂鬱な気持ちの時は、正論を自分に向けて吐いていないか確かめてみるのがよい。

正論なんてものは、本当に狭い範囲でしか物事を捉えていない。

その狭い範囲では正しいかも知れないが、人間はもっともっと広い存在だ。


正論の総量規制をしよう





ゆめ

私は毎晩夢を見る。

ほとんどが何の変哲も無い日常生活の夢で、特にこれと言っておかしな事が起こるわけでもない。

しょこたんとか、猫とか、私の好きなものが出てくることが多い。

しょこたんとはゲームをしたりちょっとした雑談をしたりする。

昨日の夢では、しょこたんとスーパーファミコンをしたり、猫が私の刺身を食べていたりした。

ここで一つ気が付いたことがある。

夢は、現実の世界と繋がっている。

現実の世界に存在しないものは夢の中にも現れない。

夢は現実の延長線上にある。

もちろん、私はしょこたんと親しいわけでも無いし、猫も飼っていない。

夢の世界は可能性の世界だ。

ゲームと言っても良いかもしれない。

ゲームの世界は現実には存在していないが、限りなく現実に近く、現実と繋がっている。

夢も同じで、夢が単独で存在しているのでは無く、現実の世界と繋がっている。

夢が平凡なのは、現実が平凡だからで、悪夢を見るのは、現実に怖い何かがあるからだ。

そして、現実が夢に影響を与えるのと同じように、夢が現実に影響を与えているかもしれない。

なぜなら、自分と言う存在は、夢でも現実でも一つなのだから。