ざっき | ゆうきの話

ざっき

人間はその生涯において平均して約1回、死ぬ事があるらしい。

稀に2度死ぬ人間もいるらしいが、詳しい事は分からない。

何しろ私は一度も死んだ事が無いし、死んだ人に話を聞いた事も無いので、正確な事は分からない。



世の中には分からないことが多い。

そしてなかなか体験出来ない事が多い。

恐らく全員死を体験するはずだが、誰一人として死を理解出来ていない。

恐らく全員誰かにとっての他人なのに、誰一人として他人を理解出来ていない。

考えてみれば当たり前で、生きるという事がどう言う事かを理解していないのだから、死を理解出来なくて当然だ。

考えてみれば当たり前で、自分という存在がどう言う存在かを理解していないのだから、他人を理解出来なくて当然だ。


なんにも分からないと言う事がわかっただけでも、なんにも分からないよりはマシだ。




とってもおもしろい話し


昔々ある所に、場所を特定されては困る何者かが存在していたらしいと言う噂を聞きつけて、その正体を暴いてやろうと言う若者がおりました。

その若者は、まずはじめにその手がかりを探すために、この話が何処から広まったのかを調査する事にしました。

しかし、個人ではそれほど大規模な調査を出来ないので、まずは、大規模な調査を出来る仕組みを作る事にしました。

まず、世界中の人と簡単に連絡が取れる方法を開発しようと考えました。

色々考えた結果、声を遠くまで届くように加工して、それを世界中に届けるという事を思い付きました。

しかし、なかなか良い方法が思いつきません。

そんなある日、カフェでアイスコーヒーを飲んでいる時にふと思い付きました。

アイスコーヒーがストローを通るように、声を、何かの中に、まるでコーヒーのように通せはしないだろうか、と。

しかし、世界中に普通のストローを張り巡らせる方法では、ストローの強度の問題等もあり、なかなかうまく行かない事がわかりました。

そこで、もっと丈夫で簡単に延ばせる素材を作って、その中をコーヒーの変わりになる物を流す事にしました。

そこで彼はストローよりも丈夫な、とても小さな粒と、その周りを流れるもっと小さな粒を作りました。

声の振動を小さな粒の流れに変換して、それを粒で作った道を通します。

そして、それを受け取った側で再び音に変換して聞けば良いわけです。

早速その為の装置も作り、それを世界中に配りました。

そして、何か情報が無いかを毎日確認しました。

そんなある日、そんな事などどうでも良くなる様な、大変な事態が判明しました。

それは、来週から月のウサギがつく餅のもち米が新米になると言う、前代未聞の出来事が起こるらしいとの事でした。

早速、ロケットで月まで行き、その真相を確かめる事にしました。

この事の何が重大かと言えば、もし仮に、月のウサギのつくもち米が新米になるのだとすれば、即ちそれはどこかでもち米が栽培されていると言う事です。

もちろん月には大気がありません。

そして、ウサギがロケットを操縦して地球まで来たと言う記録もありません。

つまり、この事態は人類の認識が根本的に間違っている可能性を示しているのです。

この情報事態が間違っている可能性もあります。

それを確かめるためにも、早速月に乗り込み、ウサギたちに聞いてみる事にしました。

しかし、月と言う場所はご存知の通り大気も無く、荒涼とした荒地が続くばかりで、ウサギなど何処にも居ません。

兎がいなくては話を聞くことが出来ないので、早速地球からウサギを持ち込み、それが住めるようなコロニーを建設、そしてしばらくウサギたちをそこで生活させて、慣れて来た頃に話を聞く事にしました。

もちろんそれまでの間に、ウサギの言葉を理解できる方法を開発したのは言うまでもありません。

そしていよいよウサギたちに話を聞くと、餅と言うものの存在を知らないと言う事でした。

それでは餅が新米かどうかがわかりません。

早速ウサギたちに餅と言う物を教え、それの製造方法、およびそれを作れるだけの知性を与えました。

彼らの学習能力は素晴らしく、あっという間に餅つきをマスターし、そしてもち米を月で現地栽培するまでになりました。

全ての準備が整ったので、早速ウサギに聞きました、そのもち米は新米なのかと。

ウサギは自慢げに自分たちの餅が自分たちで育てた新米のもち米によって作られていると話してくれました。

そして、きなこ餅やら大福やら、色々な餅料理を振舞ってくれました。

お腹が一杯になったので今日は月で眠る事にしました。

若者は、眠る前にウサギたちの間に伝わる不思議な話を聞きました。

それは、自分たちは元々月の向こうに見える地球と言う星に住んでおり、そこから餅をつく為にやってきて、餅のつき方なども、そこから伝わったのだ、と言うにわかには信じがたい御伽噺でした。

一見、荒唐無稽な夢物語にも、一遍の真実が含まれている可能性があります。

若者はウサギたちに、地球にも確かにウサギが沢山居るという事、そして、餅というものが確かに存在することを伝えました。

ウサギたちは驚きましたが、自分たちの言い伝えがもしかしたら正しいのかもしれないと喜びました。

そして、いつの日にか、その地球へと自分たちの手で行く事を目標とする事にしました。

きっと、月のウサギがついた餅は地球でも大変な評判になるでしょう。

その日を楽しみにしつつ、若者は月を後にしました。

若者の探求は続きます。




事実は小説よりも奇なり、と言うように、現実の世界では、理路整然とした、筋道の分かりきった物語など及びもしない、摩訶不思議な出来事が起きている。

従って、より現実に近い物語を描くには、より現実離れした物語を書かなくてはならず、時には因果律を超越し、世界の外から物語を構築する必要もあると思う。

つじつまを合わせようとすると、必ず歪が生まれる。

物語の流れを無理に整えようとする行為は、結果的に現実世界との乖離を生み、物語が人間の思考の中に縛れてしまい、ひどく退屈なものになってしまう。


とは言え、そんな事を言った所で、面白くなければ、物語として読まれる事も無いのだから、多少はつじつまを合わせ、見せかけの因果律に従う必要もあると思う。

なぜなら、現実ほどに非現実的な物語は、理解しがたく、読んでいて面白いと感じる事が出来ない可能性があるからだ。



・・・この文章を、未来の知性はどのように分析するのだろうか。

21世紀の人は、恐らく分析などせず、読まずにうち捨てるはずだ。

と言う訳で、もう少しだけ、未来の知性への分析用データを提供しよう。



早く猫型の本が開発されないかな



レンタル天才脳とか無いのかな。

一度でいいから、頭が良いと言う状態を体験してみたい。

そのような人は、頭の回転が速く、色々なことがすぐに思いついたり、様々な回答を、普通よりも遥かに早く出せるらしい。

世界は澄み渡った快晴の空のように何もかもが素晴らしく明らかに晴れやかであるはずだ。



悲観は理性から生まれ、楽観は感性から生まれる。

楽観できる感性を身につけたい。




正論と空しさによる人生の支配から開放される為には、能力が必要だ。

能力を高める以外に、問題を解決する方法は存在しない。

能力が必要だ。

今の所、平均値を超える能力を何一つ有していない。

平均値を超えるだけでは不十分で、上位20%に入る程度の能力は不可欠だ。

さもなくば、その能力には、ほとんど利用価値が無い。

利用価値が無いものは、つまり、利用されない。

利用されなければ、つまり、存在する価値が無い。

恐らくここら辺が、おおよその問題の根本にある。

そして、平均して人間の80%の部分は利用価値がないが、残りの20%には利用価値がある。

一人の人間の100%の部分が利用価値がある事は稀で、どんな人間にも、有用な部分とそうで無い部分が混在している。

だから、すべての人間は必要である。

何故なら人間は必要な能力の部分だけを取り出して使うわけにはいかないのだから。



人間は、悲観と楽観、どちらが好きなのだろうか。

私には、どうしても楽観が好きで悲観が嫌いだと言う人間ばかりには見えない。

明らかに悲観を好み、それでも立派に生きている人は大勢いる。

だから、悲観的な事を書く事を恐れる必要は無いと思う。

ただし、この前も書いたように、諦める事には意味が無いので、生きている限りは、可能性を追求し続けるしかない。