時間軸へのアクセスに対する自由度の違い | ゆうきの話

時間軸へのアクセスに対する自由度の違い

書く人間にとって時間は一定の方向へと流れる変更不可能なパラメータだが、読む人間にとって、時間軸は自由に操作可能な変数の一つに過ぎない。

この文章を書いているこの瞬間は、私にとってこの時間・この瞬間でしか有り得ないが、読む人間にとっては、時間軸はただの数値に過ぎない。

だから、この文章がいつ書かれたかを気にする人などほとんどいない。

書く人間と読む人間との間にあるこの時間軸へのアクセスに対する自由度の違いを意識して書く必要がある事も有る。

これは勿論文章に限らず、全ての創造に対して言える事だ。

ブログを更新するのは私のとっては久しぶりだが、この文章を読む人にとっては日付の数値の違いくらいの意味しか持たない。

次の更新は、私にとっては今のこの瞬間の時間軸の同一線上にある未来、その一点になるだろうが、これを読む知性にとっては時間はひとつの面として捉える事が出来、その面の中から任意に抽出可能なものなので、時間に対する認識も書く側とは全く異なる筈だ。

書く人間よりも、読む人間のほうが高次元の存在だと言える。