「クリスマス中止」中止のすすめ | ゆうきの話

「クリスマス中止」中止のすすめ

毎年「クリスマス中止のおしらせ」が発せられる。

これにはいくつかの理由が考えられる。

ひとつは宗教上の理由、これは合理的なものであり、そしてほとんど唯一、論理的に考えて賛同できる中止理由だ。

そして、その他の理由はおそらく「嫉妬」という言葉に集約できると思われる。


この「嫉妬」は単純な誤解が引き起こしている。

この誤解は幼少期に植えつけられている可能性が高い。

子供はクリスマスにはプレゼントをもらい、そしてケーキを食べる。

これらの行為は全て「受け取る」行為である。

子供の頃のこの体験が「クリスマス=受け取る」行事であると思い込ませてしまう。


クリスマスとは「贈る」行事である。


これはごく単純な算数で説明がつく。

仮に人間が一人ひとつずつ「愛」を持っているとする。

すると「愛」の数は人間の数と同数である事になる。

そして他人の「愛」がほしい場合、誰かから愛を受け取る事になるが、そうなると受け取れる愛の総数が世界から一つ減少する。

それを解消するには自分の持つ「愛」を世界に解き放ち、他の人に贈る以外にない。

さもなくば世界のどこかに誰からも愛を受け取れない人が生じてしまう。

これは単純な算数の問題である。

さらに、これも簡単な算数だが、一人の人間がより多くの人を愛すれば、それだけ多くの愛が世界に供給される事になる。

他人が持つ愛に嫉妬する事は、問題を解決する手段としては間違った方法である。

愛が不要の人間は他人の愛に嫉妬しない。

つまり嫉妬をしている時点で、その人は愛を欲しているのである。

そして他人の愛に嫉妬し、それを消し去ってしまおうとする行為は、結果的に世界の愛の総量を減少させてしまい、ますます愛を受け取れる機会を減らしてしまう。

クリスマスにプレゼントを贈る行為は、世界の愛の総量を増やす行為であり、それこそが最大の目的である。


世界の愛の総量を増やすには、人間一人ひとりが「贈る」愛の量を増やす以外に無く、それを行事に組み込んだものがクリスマスである。


つまり「クリスマス中止」を訴える事は、その行為自体がそれを叫ぶ人を愛からさらに遠ざける結果になり、矛盾以外の何者でもない。


愛に対する嫉妬は愛への渇望に他ならず、愛の総量を減らす言動は非論理的だ。

論理的に考えれば、宗教上の理由以外で、クリスマスを積極的に中止させる理由は無い。


愛に関心が無い者は、他人の愛に嫉妬する事は無くクリスマスを中止させる理由がそもそも存在しない。

愛を欲する者は、世界の愛の総量を減らし自分が愛を受け取れる可能性を減らす行為を行う事は矛盾でしかない。


つまり「クリスマス中止」は中止する以外に選択肢は無い。


それでも「自分は愛を受け取れる事など無い」と考えている人は思い出してほしい、単純な算数の問題を。

世界の愛の総量を増やせばそれだけ愛を受け取れる可能性が増す。

多くの愛を世界に供給してやれば、それだけ愛の総量は確実に増える。

そして誰しも愛する事は可能であり、つまり世界に愛を供給する事が出来る。


クリスマスを中止に追い込みたいと思う人は、その前にまずは誰かに愛を贈ろう。

そうすれば愛が溢れ世界を巡りあなたにきっと贈られるから。