ゆうきの話 -3ページ目

雑記

データ



室温 28.4度
湿度 45%



絵を描こう

漫画を描くのも、アニメを描くのも、本質は同じだ。

漫画が描けるならば、アニメも描ける筈であり、どちらかしか描けないと言う事は、何らかの技術的な欠陥が存在している事になる。

もちろん「面白い」漫画を描けるからと言って、「面白い」アニメが描けるわけではないが、絵を描くと言う技術面においては、両者に違いは無い。

漫画としての画力を向上させるのに、アニメーションを描く、と言うのも一つの選択肢だ。

漫画での絵の技術の要点は、登場人物を360度自由に動き回らせられる点にある。

360度自由に動き回らせる事ができるのであれば、それは漫画であろうとアニメであろうと非常に有用である事は確かだ。

いままで、アニメーションを描くと言う事は念頭に無かったが、求めている能力は結果としてアニメーションを描く事でもあると気が付いた。

現在、アニメーションを作る事自体は個人でも出来、簡単に世界に向けて発信する事も出来る。

課題はとにもかくにも絵を描く能力だが、必要な能力であるのだから、出来ないわけにはいかない。

出来なければ先に進む事は出来ないのだから。

ある程度ね




止まっている!!

これが目指すべき道だと感じた。

上手いヘタでは無く、止まっているか動いているかで見なくてはならない。

動いている絵を描かなくてはならないという結論に達した。


どんどん課題が見つかるのは良い事だ。

課題があればそれを何とかできるから。




指の体操から始めよう


ゆうきの話




動きがあり、そして「見る」絵の下書き



ゆうきの話







続きはあとで








雑記

データ

室温 28.5度
湿度 60%



いよいよ自転車で走ると虫が顔にぶつかって来る時期になってきた。

飛ぶ事の出来る虫の多くは、狭い場所でも平気で飛び回ったり、手で払いのけようとしても簡単に避けてしまう。

しかし、自転車で走っていると、頻繁に蚊やらアブラムシやらとぶつかる。

気が付くとてんとう虫が肩に止まっていたりする。

街中での自転車の速度は時速10Km程度だと思うが、空を飛ぶ虫がその程度の速さの物体を避けられないのは何故だろう。

その様な研究が行われたと言う事は聞かないが、虫は普段から色々なものにぶつかりながら移動しているのかもしれない。




ブログっぽい記事

近所のコンビニが動物病院になっていた。

以前はファミリーマートだったのだが、ファミリーマートは他のコンビニチェーンよりも開店と閉店の頻度が高い気がする。

ゆうきの話







昨日見た夢には、恐らくインド系と思われる男性が科学の実験のようなものをしていて、その男性の身体が青白く網目状に発光していた。

何故発光しているのかは聞かなかったが、恐らく外部からの光、例えば紫外線のようなものに反応して光っているように見えた。




絵を描こう


今日も絵を描こう。

そろそろ色付きの絵を描こう。


まずはウォーミングアップから



ゆうきの話-1 ゆうきの話-2 ゆうきの話-3




色塗りといえば、そのような色塗りなどの手順や技法はすぐに忘れてしまう事に気が付いた。

完成品だけでは無く、描き方なども何らかの形で残しておいた方が有益かもしれない。



「見る」をテーマに絵を描こうと思いついた。

鍛錬と言っても、漠然と描くよりも、テーマを決めて描く方が良い。

とりあえず4月中は「見る」をテーマに描こう。

目標は「それが何をしている絵なのかが文字による説明無しに分かる事」なので、見ると言う行為も重要だ。

「視線」を理解できるのは人間くらいと言う事で、視線は人間の証明でもある。


あと、去年までに描いた絵の修正や清書も少しずつやっていこう。



ゆうきの話-4 ゆうきの話-5


みる



見るという行為を描く練習。

もう少し線を細くしても良いかもしれない。

雑記

データ

室温 26.4度
湿度 50%






コンフリクトによるスタックが発生する事はよくある事だ。

人体に搭載されている中央演算装置は言語的思考のマルチタスクが苦手だ。

これは短期記憶メモリの揮発性の高さと容量の制限によるものと思われる。

単独のスレッドが脳の演算能力を占有する事によるオーバーフローの解消が課題となる。

一定時間毎に演算装置を引き渡す事を各スレッドに強制すれば課題を均等に処理可能になり、ある程度オーバーフローは解消される。

特定のスレッドが演算能力を使い切ったままになるのは、停止性問題が根本原因であり、強制中断以外の解決方法は存在しない。

オーバーフローの原因は演算能力の不足にあり、演算能力不足の大きな原因が停止性問題にあるのは明らかだ。

複数の演算予定の課題が同時に存在し、それがコンフリクトを生じている場合、最適解は、いずれかの演算を速やかに行い解を導く事にある。

その際の課題のプライオリティは重要では無く、重要なのは停止性問題であり、原理的に一定時間で強制的に中断する以外に方法が無い。

存在する課題を一定時間演算処理を行い、時間以内で得られた暫定的と思われる解を一応の解として記憶し、そして次の課題の演算に取りかかる。

そうすれば、相当な量のスレッドをこなす事が出来るようになる。

ただし、ここで重要なのは、一定時間内で一応の解を出したものについても、必要に応じて、演算を再開する事ができるようにしておくことだ。

その為のデータを記憶しておく事が必要だが、人間の脳内にある短期記憶のメモリは非常に揮発性が高く、容量も限られているので、データは可能な限り外部記憶媒体に出力しておく必要がある。

つまり、メモ帳にでも今現在の演算結果を記述し、次の課題に取りかかれば良い。

コンフリクトが生じるのは、簡単には処理出来ないと思われる課題が複数存在する時だ。

そして、あらゆる課題は、その演算が終了するかしないかを知る方法が原理的に存在しない。

無限に演算能力を消費するたった一つの課題をいつまでも計算し続ける事は困難だ。

難しい問題ほど一回に考える時間を制限しなくてはならない。



と言うような事を近所の野良猫がパソコンのキーボードの上で寝そべりながら言っていた。

専門的な事はともかく、猫が何故キーボードの上で寝るのかが分かった気がした。


当たり前の事ばかり書いても全然面白くも何とも無い・・・。


と言うわけで



絵を描こう

修業の一環として、アイコンやイラスト等を求めている人に求められたものを描くと言う試みを行おうと検索をしている。

検索は時間を無限に吸収してしまうので、よき所で切り上げて、今日も指の運動を始めよう。

と、その前に4月に描いた絵をwebサイトに貼り付けた。

このブログではブログの幅の都合で画像のサイズを横幅540にしているが、webサイトでは800にしている。

色々調べた結果、現在の平均的なモニタの解像度からすると、横幅800くらいがほとんどの人が横スクロールせずに見られる画像サイズのようなので800にしている。

将来、フルHD以上の環境が主流になれば、画像のサイズを高める必要も出てくると思うが、その際は選択可能にするという方法もある。

ただし、選択可能にしてしまうと、クリック数が増えて見るのが面倒になる。

見る人の環境に応じて自動で表示する画像のサイズを選択するスクリプトでも書けば良いのかもしれない。

その場合はスクリプトを無効化している環境での対応が課題になるが。


webサイトの「絵のコーナー」は、完成・未完成関係無く、描いたモノは可能な限り貼り付ける事にしている。

色々な人に見てもらうと言うのも大きな目的だが、記録と言う意味もあるので、描いたモノはとにかく貼り付けるようにしている。

未来の知性がこのサイトの画像データを発見し、21世紀の人間を分析する際に使用できるようにすると言う意図もある。

1度インターネット上に公開したデータは様々な組織により収集され、半永久的に保存され続けるはずで、それを遠い未来の知性体が研究に利用すると見越しての判断だ。

そんな事より絵を描こう。


ゆうきの話 ゆうきの話



そろそろ色付きを描こう







雑描

描くと猫が似て居るのは何故だろう


データ

室温 26.1度
湿度 50%

2013/04/08~2013/04/14のブログへの総アクセス数 6




分からない事ほど面白い


恐らく世界は全て計算可能で完全に論理的な、つまり分かりやすい構造になっているはずだ。

でなければ今日見えている星空が明日もそこにあるとは限らなくなるし、直径数百億光年と言われる現在の宇宙がここまで均一な構造になっている事に説明がつかない。

お互い光の速さでも情報をやり取りできない程に遠く離れた場所同士が、共通の決まりを持たずに、つまり非論理的にただ何となく存在しているだけでそっくりな構造を保てるとは思えない。

だから宇宙は恐らく一つのルールで成り立っており、そのルールにはほとんど、或いは全く揺らぎが無いと考えるのが妥当だ。

そういう意味では宇宙は分かりやすく出来ているはずだ、そのルールを知っている者にとっては。

だが、今の所全てのルールは知られていないし、ルールが分かったとしても、それを今の宇宙に当てはめて宇宙の全てを知る事はほとんど不可能だ。

だから宇宙は面白い。

もっと分からない事が増えればもっと面白くなるに違いない。





絵を描こう


描き直したり、清書したりする、と言うのも良いかもしれない。

今の所、描いた絵はほとんど一度筆を放したらそのまま置いておく事がほとんどだ。

しかし、しばらく置いてから、ふと見返してみると、問題点などがよく見えてくる。

何より一番気になるのが色だ。

今年になってモニターを交換した影響で、去年までに描いた絵の色合いが、想像していたものより大分違って見えている。

去年まで使っていたモニタよりも、今使っているモニタのほうが黒が強調されており、そして赤が濃く見える。

これは、今使っているモニタが黒や赤がキツイのか、前のモニタの黒や赤が薄かったのかはよく分からない。

モニターの調整を手動でしてみてはいるが、前のモニターとの色の違いは大きい気がする。

前のモニタが完全に壊れて映らなくなっているので比較のしようが無いが・・・。

こういった調整を自動で行うモニタも存在するが、かなり高価だ。

色が違うといっても、普段ネットを見たり動画を見たりする分には特に気になる事は無い。

自分で描いた絵だけが、描いた時のイメージと違う。

今後はしばらく今のモニタを使っていく事になるかもしれないので、このモニタにあわせて気になる絵の色を再調整するかもしれない。

考えてみれば絵を見る環境は千差万別で、このモニタに合わせたからといって、全ての環境でそう見える訳では無い。

印刷物なら一つの色に決めてしまえばあとはそれを刷るだけで同じ色の絵をいくらでも作れるが、デジタルではそれも難しい。

一応同じような色に見えるような規格は存在するようだが、それでもやはりモニタの個体差によって表示される絵の色は違う。

それは電気屋等でずらりと並んだモニタ同士を見比べてみれば一目瞭然だ。

高価で正しい色を表示できるモニタを使うのが今の私に出来る最良の策だ。

でも、気にしだしたらキリが無い気がして来た・・・


色もそうだが、それ以外にも修正したり変更したりしたい絵がある。

たぶん描いた時には下書きのつもりで、いずれそれを元にもう少ししっかりとしたものを描く予定だった絵がある。

そういったものを少しでも完成に近づける事も行っていこう。


「アイコン用イラスト」は今でも描いて欲しい人を募集中だが、全く何の反応も無いのが現状だ。

そこで、こちらからそういう画像を求めている人を探そうとツイッターやブログを検索してみたが、その様な需要はあまり無く、あっても既存のキャラクターを描いて欲しいと言うものが多く、オリジナルの絵を求めている人は非常に少ない。


ゆうきの話

雑記描き

雑記を描こう。


データ

室温 23.8度
湿度 57%



絵を描こう



とりあえず、ウォーミングアップ


ゆうきの話-1 ゆうきの話-2





そういえば、ツイッターとかブログで描かれている絵のサーチをしばらくしていない。

と言うことで、ツイッターを「イラスト」と言うワードで検索してみる。

結果は前に検索したものと大差ない。

意外と画像をアップロードしている人はあまりいない。

そして、絵の大半は今時の萌え絵と呼ばれるもののようだ。

萌え絵は高度な技術が必要で、目にしても口にしても高度に記号化が進んでいる。

私でも真似事くらいは可能かも知れないが、まともに描くのは大変そうだ。

現在の流行を見る限り、私の画風は到底流行のものとは言えず、また流行の絵を描く能力もない。

しかし、一番重要なのは、その絵が何を表しているのかが伝わる事であり、流行はうつろうものなので、いくら追いかけてもキリがない。

と言うことで、今日も描いてみよう。

そういえば、何を描くかを決めていなかった。


何を描くかを決めるには、何故描くかを決めた方が決めやすい。

絵は手段であり、目的こそが重要だ。


目的は鍛錬であり、文字が無くてもそれが何をしている場面かが容易に分かる絵を描く事を目指しているのだから、何かをしている絵を描けば良いと言う事になる。

この目的を達成するのに不可欠なのが、その絵が何をしている場面なのかが容易に分かるかどうかを判定する目であり、それは私では出来ない。

ただ、このブログへの今週の総アクセス数は 3 であったことからも、このブログにその目を求めるのはかなり厳しいと思われる。

このブログのほかにwebサイトもあるが、そこの絵のコーナーへのアクセスは今週はまだ0だ。

それを考えれば、このブログで発表するほうがまだマシかもしれない。

そもそもブログは、書きさえすればとりあえず見てもらえる、と言うものではない。

よほど書いてある内容、又は書いている人物に魅力が無いと、ただ書けばそれで誰かが見てくれると言う事は全く無い。

そう考えると、ブログは単純に画像等のデータを置く場所としてのみ使用し、そこから何らかの反応を得ようと言う事は考えないほうが良い。

そして、反応が得られるようになると言う事は、それなりに力がついて来た証拠と見ることも出来るかもしれない。


とにかく描こう



ゆうきの話-3




続きは後で

ざっき





データ

室温 24.2度
湿度 53%




少しばっかり寒いんでないかい




過去・未来

時間が過去から未来に一方的に流れているように見えるのは、時間が過去から未来へと等速度運動しているからだ。

等速度運動を妨げるには、未来に向かって時間を与えてればよい。

そうすれば、その反作用によって時間を停止、又は反転させる事ができる。

物体の速度を光速近くまで加速すると、時間が遅く進み、光速に達した時点で停止するのは、物体の運動が、時間の流れを生み出すからで、物体が加速するほどに、それによって生じる時間の量が増加し、その反作用により時間が遅くなる。

物体はごく僅かに時間の次元に干渉する事が出来、加速する事でその干渉を高め、時間の次元に衝撃を与える事が出来、その衝撃が時間の流れと呼ばれる現象となる。



設定は多いほどよい。




情報量

時間当たりに処理できる情報量には限界がある。

コンピュータでもそうだし、人間にも当然限度がある。

伝えたい情報量に対して、使用できる時間が少ない場合、時間当たりの情報量を増やすことで大量の情報を伝えようとすると、それを受け取る方はいずれオーバーフローを起こし、結局大した情報を受け取れなくなる。

映画の場合、2時間で伝えられる情報量はそれほど多くない。

伝えたい事が多いからといって、2時間に何でもかんかんでも詰め込むと、結局何もかもがボンヤリとして記憶に残らなくなる。

何故こんな事を書いているのかと言えば、そんな映画を見たからだ。


映画に限らず、すべての情報は一度にそれほど処理出来ない。

情報量の削減が必要な場合も多い。





絵を描こう


ゆうきの話 ゆうきの話


雑記の時間




今日は良い天気だった。

と、これは気象庁のデータベースにアクセスすれば未来の知性にも分る事だとは思うが、データベースには稀に誤りもあるだろうから、生身の人間が五感を通じて得た情報を記す事にも一定の意味はあるかもしれない。



データ

気温 27.3度
湿度 50%

2013/04/01~201304/07のブログ総アクセス数 4





もう少し絵を使った文章を書いてみよう。


一つ簡単な事実がある。

それは、ベタならばベタなほど支持が集まると言う事だ。


ベタがベターだ。


だが、ベストではない。

ベストとワーストは隣り合わせだ。


そんな事より、絵を描こう。


まずは指の体操から


ゆうきの話 ゆうきの話







改めて、2012年に描いた物を見てみると、愕然とする。

ネット上に晒しておくだけでも結構あれだが、これを消しても現実が変る訳ではない。

描いたモノを消すよりも、それを常に目のつく場所に置くことで、己を知り、更なる修業の必要性を肝に銘じる為に活用したほうが良い。

と言うか、それくらいにしか使い道が無い。

やはり自分の描いたモノをたまに見返す事は必要だ。





「上手い」とは

上手くなりたければ、まず「上手い」を定義する所から始める必要がある。

何が目的なのかも分からずに努力する事など出来ない。

「上手い絵」が描きたいのであれば、まずその「上手い」を定義する必要がある。

写実的な絵なのか、可愛らしい絵なのか、誰かの描く絵のような絵なのか。

可能な限り「上手い」の定義を具体的にする事で、それに近づく方法を考える事が出来る。

私の場合は簡単で、「文字による説明が無くても、それが何をしているか分かる絵」が上手い絵だと考えている。

だから、単に写実的であるとか、単に売れている漫画の模写が出来ると言う事は、上手くなる為に有利な能力ではあるが、それで十分な訳では無い。

上手くなりたければ、まずは「上手い」の定義から始めなければならない。



その様な点から見て、2012年に描いた絵がどの程度目標に近づいているのか調べよう



問い「この絵は何をしている絵でしょうか」



ゆうきの話







答「黒猫がツクシを食べようとしている絵」






ゆうきの話






答「逃げ水を追う子供」






ゆうきの話






答「宇宙を顕微鏡で覗く者」







ゆうきの話







答「ヨーヨーをする黒猫」






ゆうきの話







答「漫画を描く黒猫」










ゆうきの話







答「空を歩いてくる宇宙人」









ゆうきの話







答「走り出す子供」





ゆうきの話







答「焚き火で焼き芋やきのこを焼いて食べる子供」







ゆうきの話






答「雪だるまを作る光景」






ゆうきの話






答「駄菓子屋で菓子を買う」




これらの絵が、どの程度それらしく見えているのか、正直な所よく分からない。

なぜなら、この絵は私が描いたものであり、その場面である事は分かりきっているので、自分の感覚は全く参考にならないからだ。


そして、その見え具合にも程度がある。

全体的に見た場合は何となくそんな風に見える場合でも、細部に目をやると、それらしく見えない事も珍しくない。

全てを完全に描くこと自体は不可能かも知れないが、可能な限り何であるかをひと目で判別できる程度の絵である必要はある。

もちろんそんな段階までは遠く及んでいないのは確かだが、とりあえず大雑把に、それらしく見える絵、に到達するのが今の所の目標だ。






「最近の若者」に自信が無いのは当たり前だ

昔なら、村で1番足が速い人ならば、一生「あいつは足が速い」と言われ続けた。

しかし今では、世界中の人の足の速さを誰でも簡単に調べる事が出来、村一番の俊足の持ち主も大した事がないと分かる。

昔なら、村一番の物知りならば、一生「あの人は大変に物知りだ」と尊敬され続けた。

しかし今では、世界一の物知りがクリック一つで何でも応えてくれる。

運動能力も、知識や経験も、全てが村単位から全人類単位で比較される時代になった。

当然ながら1位と言う存在は一人しかいない。

そして、それ以外の存在はほとんど顧みられる事が無い。

若者がどんなに努力しようとも、生まれながらの天才に、生まれながらの環境に恵まれた人間には敵わない事は、すぐに分かってしまう。

そして、世界全体が一つの村になりつつある今、一番になれる人間は限りなく少なくなりつつある。

グローバル化は、それまで村の中の数百人がライバルだった状態から、一気に全人類70億人がライバルになる事態を引き起こす。

今の若者は、小さな数百人の村人相手では無く、全人類70億人と比較され、戦わなくてはならない状況に置かれている。

そして、ほぼ全ての若者は何一つ1位にはなれない。

自信を持つには何らかの根拠が必要だ。

自分が他者よりも優れている事、必要とされている事を実感出来た時、それは自信へと繋がる。

しかし、その様な体験をする機会が以前に比べて格段に減っている。

どんなに勉強をして賢くなろうと努力しても、自分より頭の良い人間がいくらでも居るという事は簡単に分かってしまう。

どんなに一生懸命働こうとも、一生給料が上がる見込みがない事は、経済の状況を見れば簡単に分かってしまう。

優秀な人間、成功した人間が目立てば目立つほど、そうではない人間は顧みられなくなり、そして自信を失う。

そして、世間には自信のない若者で溢れる事になる。

そして、この「若者」は、歴史から見れば今生きている全ての人間に当てはまる言葉だ。

これからますます、過去は保存され、その保存精度は高まる。

過去は消え去るものでは無く、永遠に劣化する事無く蓄積するものになる。

これからの人類は、現在生きている人間だけでは無く、そういった過去の人間たちとも比較され、戦わなくてはならなくなる。

例えば、作曲家のリストはピアノ演奏の天才で、その演奏は素晴らしかったそうだが、残念ながら映像や音声は残されていない。

しかし、20世紀以降の天才と呼ばれる演奏家の演奏は映像や音声として保存され、半永久的に閲覧が可能だ。

今のピアニストは、そういった映像や音声で永遠にピアノを奏で続ける天才たちと常に比較される。

その様な事態があらゆる分野で発生し、人間はますます自信を持つ機会を失う事になる。

今の若者に自信が無いのは歴史の必然であり、このまま文明が発達すれば、それはより顕著になる。

では、どうすれば若者が自信を取り戻すのか。

それは簡単な事では無い。

なぜなら、それは、より劣ったもの、より効率の悪いものを意識的に選択しなくてはならないからだ。

若者に自信をつけさせるために、値段が高くて性能の低いものを買う余裕があるだろうか。

2000円出せば超一流のピアノ演奏がつまったCDを買える現状で、同じ値段を出して、それらと比べればやや劣るであろうピアニストのCDを買えるだろうか。

過去と比較できるものについては、それら全てに勝らない限り、ほとんど誰にも注目もされない。

若者が自信を取り戻すには、過去には存在しない、そして、他に比較が出来ない、新しい何かを生み出す必要がある。

それは容易ではないが、不可能でも無い。

ただし、新しいものなどそう簡単には生まれはしない。

また、生まれたとしても、それもすぐに全人類との競争になり、ほとんどの人間が劣った存在とみなされる日が来る。


自信を取り戻す方法は幾つかある

1、他者との比較をやめる

2、新しい分野に挑戦し続ける

3、その分野で最も優れた存在になる


「他者との比較をやめる」というのは言わば鎖国をするようなもので、昔のように小さな村の中で生きるようにする事だ。

それで生きてゆけるのならばそれでもよいかも知れないが、それが出来る分野は限られる。

「新しい分野に挑戦し続ける」ならば、ライバルも少なく、その分野で1番になれる可能性も高い。

しかし、新しい分野を生み出す事自体が大変であり、そしていずれライバルで溢れかえる事になり、そうなったら他の新しい分野に引っ越すか、その分野で世界の強豪たちと血で血を洗う戦いをする事になる。

「その分野で最も優れた存在になる」事が出来ればそもそも自信を失う事もない。

いずれにせよ、自信を持つと言う事は、今後ますます困難になる。


若者に自信が無いのは歴史の必然であり、文明が発達した結果である。

自身を現代文明に適応させた結果、その代償として自信の喪失という重荷を背負う事になった。

自信が無ければ意欲もなくなる。

若者の無気力は、発達した文明によりもたらされた必然である。

これを解消するための選択肢は二つで、「文明を崩壊させ、原始の生活に戻る」か「単純な損得勘定で物事を見ない」のいずれかだ。


やはりいずれも難しい。


いずれ、すべての人間が自信を失い、無気力になる。

その頃には、工場ではロボットが黙々と生産を続け、大抵の事務処理は自動化されている。

法律も人工知能によって運用され、人間は単に決済のハンコを押すだけの存在になる。

それでも世界は何の支障もなく動く。

全てが滞りなく、全てが予定通りの世界。

そんな世界で、人間は優れた過去の遺物によって運営される牧場の家畜になる。

何の競争も無く、そもそも自信を持つ必要も無い。

その世界を望むか望まないかは人それぞれだろうが、このままの形で文明が発達すれば、そうなる事は確実だ。

最近の若者に自信が無いのは当たり前だ。

世界文明の構造が、そういう風になっているのだから。


とは言え、今は出来る事をしよう。

今の所、完全に発達しきった状態ではないから、少しくらい何とかなるはずだから。



大分先の話になると思うが、更に文明が進歩すれば、人類は地球の外に出る事になり、それによって物理的に分けられた複数の社会が構成され、人間が自信を取り戻す状況も生まれてくるかもしれない。

そこまで文明が発達するまで人類が自信と意欲を保ち続けられれば良いのだけど・・・。


少し極端な話しだったかも知れないけど、ある程度は当たっていると思う。


雑な記録


雑記と言うのは雑多な事柄を記録・記述するものだ。





「空が青いのは風船が空に浮かぶから」


それは、青色の好きな風船を喜ばせる為に空がそうしている、のではなく・・・


風船が空に浮かぶのは、その中に水素やヘリウムが詰まっているからだ。

なぜ、水素やヘリウムが入った風船が空気中に浮くのかと言えば、それは、空気の主成分である窒素や酸素よりも、水素やヘリウムが軽いからだ。

なぜ窒素や酸素よりも水素やヘリウムが軽いのかといえば、水素やヘリウムの原子核が軽いからだ。

太陽の主成分は水素であり、その核融合によって白色の光を発している。

もし、水素の原子核が窒素や酸素の原子核よりも重ければ、太陽での核融合は起こらず、白色の光を発する事も無い。

空が青いのは、白色の光に含まれる波長の短い青い光が、大気中の酸素や窒素や水蒸気などによって散乱される結果であり、白色の光が太陽から降り注がなければ、空が青くなる事もない。

つまり、風船が空に浮かばなければ、空も青くは見えない、という事になる。




絵を描こう

とりあえず、準備運動から


ゆうきの話


ゆうきの話



2012年に描いた絵をまとめてみようと思ったが、ブログでするには数が多すぎるので、pdfかepubにでもしたほうが良さそうだ。

出来れば、どの絵がどれくらい見られたかという順位を発表したい所がだが、残念ながら、合計閲覧数が一桁なので順位が意味を成さない。

順位が存在しない現状、全ての絵をpdfにするには多すぎるので、自分で適当に選ぶ他ない。

と言う訳で、もうしばらくしたら、2012年の絵から適当に抜粋してpdfやepubにして発表したいと思う。

以前作ったepubの画像集は、ほとんどダウンロードされる事が無かったので、今回もそれと変らないとは思うが、あっても困るものでも無いので、作っては見よう。



2012年に描いた絵より抜粋




ゆうきの話-20120101

ラグラグ

ラグラグランドにいる架空のはずの生命体。

実は実在している。




ゆうきの話-20120201

ふんふん

上を向いて元気に歩く女の子



ゆうきの話-20120202

四角いラグラグ


ラグラグを四角で表現。



ゆうきの話-20120302

ひなまつり

四角いひな祭り。

3DCG・レイトレーシング


ゆうきの話-20120301



春風を聞きながら歩く様子





ゆうきの話-20120302

おはよう

冬眠から目覚めるカエル




ゆうきの話-20120303

いただきまーす

サンドイッチを食べる




ゆうきの話-20120304

赤い靴

赤い靴を履く




ゆうきの話-20120401

ペロペロキャンデー

ペロペロキャンデーを舐める様子



ゆうきの話-20120402

マシュマロキャッチ

マシュマロを投げて口で受け止める様子




ゆうきの話-20120404

黒猫を抱く女性

ダヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」のパロディ




ゆうきの話-20120403

ガッツポーズ

嬉しい時のポーズ



ゆうきの話-20120406


横笛を吹く

横笛を吹く人



ゆうきの話-20120501

ごめん寝

何にも悪い事はしていないけれど



ゆうきの話-20120604

横顔


ゆうきの話-20120603

宇宙遊泳


ゆうきの話-20120601

笑顔の横顔


ゆうきの話-20120505

目を閉じて



ゆうきの話-20120504

雨の中を歩く


ゆうきの話-20120502

青い薔薇


ゆうきの話-20120503

しんじゃが


ゆうきの話-20120405

にこにこ




ゆうきの話-20120605

アメンボウ

ゆうきの話-20120606

とのさまねこ



ゆうきの話-20120607

聞く


ゆうきの話-20120609

ほしのおうじさま



ゆうきの話-20120608

見つめる



ゆうきの話-20120702

ねこおとこ



ゆうきの話-20120701

尻尾の活用法



ゆうきの話-20120704

黒ヒョウの子供



ゆうきの話-20120703

風吹く




ゆうきの話-20120705

んん



ゆうきの話-20120706

風鈴



ゆうきの話-20120801

みつめる



ゆうきの話-20120802

すいか



ゆうきの話-20120803

クリオネコ浴衣姿のしょこたん



ゆうきの話-20120804

横顔



ゆうきの話-20120805

トキメキ☆しょこたん



ゆうきの話-20120901

すやすやしょこたん



ゆうきの話-20121001

秋の夜



ゆうきの話-20101003

あーん



ゆうきの話-20121002

りんごあめ



ゆうきの話-20121004

星に手が届きそう



ゆうきの話-20121005

はいちーず



ゆうきの話-20121101

ブランコ



ゆうきの話-20121102

芋掘り



2012年に描いた絵、およそ1100枚ほどの中から、適当に抜粋してみた。

タイトルや説明は今書いたもので、書いた当時のものと異なっているかもしれない。

2012年に描いた物だけではな、それ以外の絵も、全てwebサイトに掲載してあるので、興味のある方は是非。

ゆうきのページ 絵のコーナー


もっと枚数を増やしてepubなどにして配布予定。

もう少し説明書きを入れたほうが良いのかも。


改めてみてみても、もっともっと改善余地がありまくる。

あと何十年かは必要だ。


「こんな絵を描いて欲しい」という要望募集中

詳しくはツイッターまでご連絡下さい


雑記を書く時間になりました

本格的に春になり、冬眠からすっかり目覚めた事になっているので、雑記を書く事にしよう。



日記

今日は風が強かった。

明日と明後日は天気が悪いと言う事なので、買い物は今日のうちに済ませておいた。

いつもと同じ食べ物を食べて、いつもと同じ時間に入浴をした。

そして今、こうして日記を描いている。



こんな日記など、書いているだけでつまらなくなってきたので、ここで書くのを終了しよう。

その代わり、今日起こらなかった事などを適当にピックアップしてみようと思う。



日記じゃない

今日は昨日よりも時間的に今の瞬間に近いと言う事実を先ほど知った。

それを教えてくれたのは、火星人の友人だ。

さらに彼の話によると、地球の時計は正確性に欠け、それはまるで火星ヘビ(火星にいるヘビのような生き物)がのたうつような感じで、地球の時計を見ているとクラクラして来ると言う。

そういえば、火星人の友人など居なかったのを今思い出した。

と言う事はこれを日記に書く事は出来ない。

日記はその日に起きた事を書く物だから、存在しない友人の事を書くのは「日記」ではなくて「日記じゃない」だ。

日記じゃないは日記じゃないから、今日出来事を書く必要が無いし、書かないほうがよい。

今日の出来事は日記にでも描こう。

と言う訳で、日記じゃないをもう少し書き足そう。

にゃんにゃんにゃん。

ごろごろにゃー。

にゃーんにゃん。

と、猫語で書いてみたが、人間は猫語を、猫は日本語を読めないので、誰の為でも無い文章になってしまった。

何だかそんな文章ばかり書いている気がしてならない。

これは日記じゃないから今日の事を詳しくは書かないが、今日はほとんどあらゆる事が起こらなかった。

そういう意味では、宇宙は今日も穏やかだ。

人間があまりにも高速に活動しているために、宇宙の歴史がほとんど止まって見えるのだろうから、もう少しゆっくりすれば、宇宙の秘密が一つくらい見えてくるかもしれない。

日記じゃないのでここら辺にしよう。





そういえば漫画

そういえば、最近はどんな漫画が流行っているのだろうか。

雑誌が全般的に売れなくなっていると言う話しで、漫画雑誌も例外では無いと聞く。

これは、不景気の影響なのか、それとも面白い漫画が無いからなのか。

ネットが原因だと言う声もあるが、ならば電子書籍版の漫画の売り上げが紙の漫画の売り上げを補完出来るほどに高くなければつじつまが合わない。

これは素直に、面白い漫画が出ていないのだと考えるのが自然だと思う。

娯楽が多様化して、漫画に頼らなくても十分に楽しい事が簡単に手に入ると言う事が大きな原因だと言われるが、つまりそれは、漫画がそれらの娯楽よりもつまらないと言う事を意味する。

つまり、面白くないのが最大の理由だ。

経済的な余裕が無くなっている、という話も聞くが、週に200円を娯楽に使えないほどに日本人が貧困になってしまったとは思えない。

かと言って、日本人の貯蓄残高が高まっていると言う話も聞かない。

つまり、その200円は漫画雑誌以外の何処かに流れている事を意味する。

その行き先を正確に調べるのは困難だが、おそらくは通信費やゲーム代ではないかと思う。

だとすれば、今時の漫画は友達とのおしゃべりやテレビゲームに面白さで負けていると言う事になる。

これだけ負けが続くと言う事は、単に面白い作品が少なくなったと言うだけでは無く、漫画と言う構造そのものにその原因がある可能性がある。

通信やゲームはユーザーがそれに能動的に関わる事ができる。

しかし漫画は描かれた物を読むだけで、読者は言わば蚊帳の外だ。

そういう意味では小説も同様である。

与えられた情報をだだ飲み込んで行くだけの作業よりも、自らより積極的に関わり、物語を動かして行く事により惹かれるのは当然とも言える。

元々小説や漫画は、それを読む事で物語の中に自分を侵入させ、そこで巻き起こる出来事を追体験する事が主目的の一つである。

ただしその際、ストーリーそのものは一字一句変える事は出来ない。

ゲームにもストーリーがあるものは多いが、細部に関しては自分の力で変える事が出来るものがほとんどだ。

関与出来ない物語の中で遊ぶより、多少なりとも関与できる物語の中で遊べるほうが面白いと言う事は、少し想像すれば分かる事だ。

それでも満足出来なくなると、いよいよ自分で物語りその物を作り出す、と言う事になる。

それもすでにあちらこちらで行われており、このブログもその一つと言える。

漫画は固定化された過去の歴史を読む事に等しく、ゲームなどは、制約はあるものの、歴史を作る事に参加できると言える。

それでも、とびきり面白い歴史ならば変えられなくとも読んでみたくもなるが、そんな名作を作り出すのは、なかなか難しい。

漫画が今後も読まれ続けるには、関与できていると言う実感を、読む人に与える必要がある。

ストーリーそのものを読者の人に決めさせると言う事でも良いかも知れないが、そこまでしなくても、この漫画に関与している、と言う感覚を持ってもらう事は可能だ。

例えば、漫画を描く過程を動画などで見せたり、ストーリーがどうやって出来るかを、可能な限り見せればよい。

作品の神秘性が失われると言う考えもあるかも知れないが、読者がいなくなってしまえば、作品そのものが失われてしまう。

そして、漫画のライバルは、ユーザーにより積極的な関与を許す事で伸びている。

多少なりとも作品との関わりを深めてもらう事によって、ゲームなどに少しでも近づく以外に、生き残る方法は無い。


もう少し先の話になるかも知れないが、いずれは漫画の中のキャラクターを、読む人一人一人が選択可能になると良いと思う。

幾つかのキャラクターを用意しておき、それをボタン一つで切り替えたり、全くのオリジナルキャラクターを読者が導入する事が出来るようになるとより良い。

これはゲームのキャラクターと同じだ。

それでは作品が崩壊してしまうと言う考えもあると思うが、そもそもキャラクターを変えなくても良く、オリジナルのまま読むのが好きな人にはそのまま読んでもらえば良いのであり、変更できる事はあくまで選択肢の一つに過ぎず、読者が漫画と言う世界により関与できる方法の一つを提供しているに過ぎない。

もちろん全部の漫画がそうならなくてはならない訳ではないが、固まった歴史を読むだけで満足する人間は、これから先増えるとは思えないので、より多くの読者を獲得したいのならば、読者の関与の余地を増やすことは不可欠になる。

最終的には、大雑把なストーリーの骨格や、特徴的な絵などを幾つか用意し、読者がそれを使って漫画と言う形に組み立てながら読み進める事になる。

まるで物語を漫画のパーツを使ってパズルのように作り上げる事を「漫画を読む」と言い表すようになる。

そして、いずれは映像やゲームと融合して、今の漫画と言う形はそれらの中のパーツの一つに過ぎない存在になる。


とは言っても、今はまだそこまで話が進んでいないので、もっと原始的に読者の人と関わって行く事から始める事になると思う。


結局コミュ力か・・・




・・・・・

だから私はこう言う文章を書くのが好きではない。

上の文章は、あまりにもありきたりで、一片の面白さもない。

書いている時は、それが読んだ時に面白いかと言うことまでは考えないので、書いてしまった後でその文章のつまらなさに愕然とする。

上の文章は描いていること全てが、誰にでも思いつく当たり前の事ばかりであり、そんなわかりきった事を長々と書いている暇があったら、フリーセルでもしていたほうがまだマシだ。

とは言っても、未来の知性への情報としては、ありかもしれない。

必要か不要かは未来の知性の決める事で、今の私はデータを出力する事に専念すればよい。



理屈で考えると何でもかんでもつまらなくなる。

そして何より、面白がられなくなる。




古来より伝わる固定化された歴史を記述する方法であるところの「漫画」をこのブログに描いて載せるのも面白そうだ。

今の所、このような文章やイラスト等を幾つも掲載して来たが、それらが生身の人間によって読まれた形跡はほとんど無い。

恐らくこのまま漫画を掲載した所で、結果は同じであると予想される。

しかし、無駄とわかりきっている事だとしても、そういう無駄をやらずにはいられなくなる事も、たまによくある。


忘れていた。

その前に、絵を上達させないと。

話しはそれからだ。



絵で思い出したが、2012年の絵をまとめてみると言う事もやっても良いかもしれない。

やる事は多い。


ざっき

人間はその生涯において平均して約1回、死ぬ事があるらしい。

稀に2度死ぬ人間もいるらしいが、詳しい事は分からない。

何しろ私は一度も死んだ事が無いし、死んだ人に話を聞いた事も無いので、正確な事は分からない。



世の中には分からないことが多い。

そしてなかなか体験出来ない事が多い。

恐らく全員死を体験するはずだが、誰一人として死を理解出来ていない。

恐らく全員誰かにとっての他人なのに、誰一人として他人を理解出来ていない。

考えてみれば当たり前で、生きるという事がどう言う事かを理解していないのだから、死を理解出来なくて当然だ。

考えてみれば当たり前で、自分という存在がどう言う存在かを理解していないのだから、他人を理解出来なくて当然だ。


なんにも分からないと言う事がわかっただけでも、なんにも分からないよりはマシだ。




とってもおもしろい話し


昔々ある所に、場所を特定されては困る何者かが存在していたらしいと言う噂を聞きつけて、その正体を暴いてやろうと言う若者がおりました。

その若者は、まずはじめにその手がかりを探すために、この話が何処から広まったのかを調査する事にしました。

しかし、個人ではそれほど大規模な調査を出来ないので、まずは、大規模な調査を出来る仕組みを作る事にしました。

まず、世界中の人と簡単に連絡が取れる方法を開発しようと考えました。

色々考えた結果、声を遠くまで届くように加工して、それを世界中に届けるという事を思い付きました。

しかし、なかなか良い方法が思いつきません。

そんなある日、カフェでアイスコーヒーを飲んでいる時にふと思い付きました。

アイスコーヒーがストローを通るように、声を、何かの中に、まるでコーヒーのように通せはしないだろうか、と。

しかし、世界中に普通のストローを張り巡らせる方法では、ストローの強度の問題等もあり、なかなかうまく行かない事がわかりました。

そこで、もっと丈夫で簡単に延ばせる素材を作って、その中をコーヒーの変わりになる物を流す事にしました。

そこで彼はストローよりも丈夫な、とても小さな粒と、その周りを流れるもっと小さな粒を作りました。

声の振動を小さな粒の流れに変換して、それを粒で作った道を通します。

そして、それを受け取った側で再び音に変換して聞けば良いわけです。

早速その為の装置も作り、それを世界中に配りました。

そして、何か情報が無いかを毎日確認しました。

そんなある日、そんな事などどうでも良くなる様な、大変な事態が判明しました。

それは、来週から月のウサギがつく餅のもち米が新米になると言う、前代未聞の出来事が起こるらしいとの事でした。

早速、ロケットで月まで行き、その真相を確かめる事にしました。

この事の何が重大かと言えば、もし仮に、月のウサギのつくもち米が新米になるのだとすれば、即ちそれはどこかでもち米が栽培されていると言う事です。

もちろん月には大気がありません。

そして、ウサギがロケットを操縦して地球まで来たと言う記録もありません。

つまり、この事態は人類の認識が根本的に間違っている可能性を示しているのです。

この情報事態が間違っている可能性もあります。

それを確かめるためにも、早速月に乗り込み、ウサギたちに聞いてみる事にしました。

しかし、月と言う場所はご存知の通り大気も無く、荒涼とした荒地が続くばかりで、ウサギなど何処にも居ません。

兎がいなくては話を聞くことが出来ないので、早速地球からウサギを持ち込み、それが住めるようなコロニーを建設、そしてしばらくウサギたちをそこで生活させて、慣れて来た頃に話を聞く事にしました。

もちろんそれまでの間に、ウサギの言葉を理解できる方法を開発したのは言うまでもありません。

そしていよいよウサギたちに話を聞くと、餅と言うものの存在を知らないと言う事でした。

それでは餅が新米かどうかがわかりません。

早速ウサギたちに餅と言う物を教え、それの製造方法、およびそれを作れるだけの知性を与えました。

彼らの学習能力は素晴らしく、あっという間に餅つきをマスターし、そしてもち米を月で現地栽培するまでになりました。

全ての準備が整ったので、早速ウサギに聞きました、そのもち米は新米なのかと。

ウサギは自慢げに自分たちの餅が自分たちで育てた新米のもち米によって作られていると話してくれました。

そして、きなこ餅やら大福やら、色々な餅料理を振舞ってくれました。

お腹が一杯になったので今日は月で眠る事にしました。

若者は、眠る前にウサギたちの間に伝わる不思議な話を聞きました。

それは、自分たちは元々月の向こうに見える地球と言う星に住んでおり、そこから餅をつく為にやってきて、餅のつき方なども、そこから伝わったのだ、と言うにわかには信じがたい御伽噺でした。

一見、荒唐無稽な夢物語にも、一遍の真実が含まれている可能性があります。

若者はウサギたちに、地球にも確かにウサギが沢山居るという事、そして、餅というものが確かに存在することを伝えました。

ウサギたちは驚きましたが、自分たちの言い伝えがもしかしたら正しいのかもしれないと喜びました。

そして、いつの日にか、その地球へと自分たちの手で行く事を目標とする事にしました。

きっと、月のウサギがついた餅は地球でも大変な評判になるでしょう。

その日を楽しみにしつつ、若者は月を後にしました。

若者の探求は続きます。




事実は小説よりも奇なり、と言うように、現実の世界では、理路整然とした、筋道の分かりきった物語など及びもしない、摩訶不思議な出来事が起きている。

従って、より現実に近い物語を描くには、より現実離れした物語を書かなくてはならず、時には因果律を超越し、世界の外から物語を構築する必要もあると思う。

つじつまを合わせようとすると、必ず歪が生まれる。

物語の流れを無理に整えようとする行為は、結果的に現実世界との乖離を生み、物語が人間の思考の中に縛れてしまい、ひどく退屈なものになってしまう。


とは言え、そんな事を言った所で、面白くなければ、物語として読まれる事も無いのだから、多少はつじつまを合わせ、見せかけの因果律に従う必要もあると思う。

なぜなら、現実ほどに非現実的な物語は、理解しがたく、読んでいて面白いと感じる事が出来ない可能性があるからだ。



・・・この文章を、未来の知性はどのように分析するのだろうか。

21世紀の人は、恐らく分析などせず、読まずにうち捨てるはずだ。

と言う訳で、もう少しだけ、未来の知性への分析用データを提供しよう。



早く猫型の本が開発されないかな



レンタル天才脳とか無いのかな。

一度でいいから、頭が良いと言う状態を体験してみたい。

そのような人は、頭の回転が速く、色々なことがすぐに思いついたり、様々な回答を、普通よりも遥かに早く出せるらしい。

世界は澄み渡った快晴の空のように何もかもが素晴らしく明らかに晴れやかであるはずだ。



悲観は理性から生まれ、楽観は感性から生まれる。

楽観できる感性を身につけたい。




正論と空しさによる人生の支配から開放される為には、能力が必要だ。

能力を高める以外に、問題を解決する方法は存在しない。

能力が必要だ。

今の所、平均値を超える能力を何一つ有していない。

平均値を超えるだけでは不十分で、上位20%に入る程度の能力は不可欠だ。

さもなくば、その能力には、ほとんど利用価値が無い。

利用価値が無いものは、つまり、利用されない。

利用されなければ、つまり、存在する価値が無い。

恐らくここら辺が、おおよその問題の根本にある。

そして、平均して人間の80%の部分は利用価値がないが、残りの20%には利用価値がある。

一人の人間の100%の部分が利用価値がある事は稀で、どんな人間にも、有用な部分とそうで無い部分が混在している。

だから、すべての人間は必要である。

何故なら人間は必要な能力の部分だけを取り出して使うわけにはいかないのだから。



人間は、悲観と楽観、どちらが好きなのだろうか。

私には、どうしても楽観が好きで悲観が嫌いだと言う人間ばかりには見えない。

明らかに悲観を好み、それでも立派に生きている人は大勢いる。

だから、悲観的な事を書く事を恐れる必要は無いと思う。

ただし、この前も書いたように、諦める事には意味が無いので、生きている限りは、可能性を追求し続けるしかない。