おもしろいざっき
「おもしろい」と付くものは大抵面白くない。
だから、このタイトルは間違っていないと言う事になる。
データ
ブログへの3月の総アクセス数 26
(ちなみに4月に入ってからの総アクセス数は 1)
気温 23.2度
湿度 60%
定点観測を続けよう。
その話なら猫に聞こう
頭の中が空っぽで、何も思い浮かばない時は、何をしよう。
その答えは人それぞれ色々あるが、私の場合は生まれてこの方、頭の中が空っぽで無かった事がほとんど無い。
常に何も無い状態で、たまに炭酸水の気泡のように、何か小さなものが少しだけ現れて、すぐに消える。
これは恐らく、構造的なもので、一生こんな感じなのだと思う。
今これを書いている瞬間も、この文章の内容が頭にある訳では無く、瞬間的に発生する言葉を、ただ単に打ち込んでいるに過ぎない。
この文字が何処からやって来るのか、どの様な理由でこの文章が書かれているのか、よく分からない。
今の瞬間も頭の中には何も無い。
アイディアが無限に沸いてくると言う人がいるが、そのような人とは正反対で、アイディアが永遠に生じない存在で有る気がしてならない。
ほぼランダムに言葉を羅列する事で物語のように感じられる何物かを作る事は出来るが、それは意図したものでは無く、炭酸水の泡粒に過ぎない。
面白い事を思いつく人間は、根本的に何かが違うのではないかと考えざるを得ない。
そんな事を考えているうちに、いっその事、猫にでも聞いた方が早いのではないかと思えてきた。
何故猫なのか、それは簡単で、猫は面白いと言う概念を、人間の外から客観的に観察する事が出来る。
人間が物理的存在であり、究極的には数式で全てを記述できるのならば、自分が面白いかどうかを自分で判断する事が出来ない可能性がある。
ただし、私が自分がどの様な数式で構成されているのかが分からないので、正確な判断は出来ない。
と言うことで、猫にでも聞いてみた方が良いのではないかと考えている。
ただし、ここには大きな問題があり、それは私の周りに猫がいないこと、そして、猫の言葉がわからない事だ。
恐らく人間のような高度な言語を利用してはいないだろうが、それでも明らかに思考能力はあり、そして高度なコミュニケーション能力を有している。
現状ではそれを正確に人間の言葉に翻訳する方法が存在していないが、猫にも明らかな知性が存在しており、それを言語化する事は可能なはずだ。
知性は情報を出力可能であり、情報とは規則性を持ったパターンで構成される。
あとはそれを人間の言葉、若しくは計算式にでも変換すればよい。
人間のような言語とは全く違った方法、例えば数式で物事を考えたり、和音や光の干渉を思考の基本言語として利用しているかもしれない。
しかし、どの様な方法であれ、単純に理屈の上で考えれば、必ず理解できる日が来るのは間違いない。
猫と話せる日が来たら、こう聞こう。
「私は面白いか」と。
いや、私が面白いかと言うよりは、私の書くこの文章は面白いか、こう書くべきだろう。
その場合、この文章を猫に理解出来るように翻訳する事も必要になり、そしてそれを何らかの方法で伝えなくてはならない。
文字で伝える事は難しいだろうから、音や匂いや光で伝える事になるはずだ。
その場合、恐らくその媒体は猫を模したモノになるはずだ。
猫型の本、と言う訳だ。
猫型の本を読ませる事によって、この文章を猫に伝える事ができれば、これが面白いかどうかが、寝子と言う、人間の外の系によって、いわば計算され、そして結果を得る事が可能になる。
猫が人間の系の外で面白いと判断すれば、それは私個人の勘では無く、論理的に面白いと言う事が、計算によって証明される瞬間でもある。
そのような、人間以外の系を外部に持つ事により、人間、そして猫も大いに発展飛躍する事が出来るはずだ。
今からその日が楽しみだ。
しかし目下の課題は、その時に向けて、私が何が面白いと思われそうな何かを作り出さねばならないと言う事だ。
ここまでで、今の所面白いといえる文章は一文字も書けていない。
とりあえず瞬間的に浮かんだ事を羅列しつつ、それらに即興で流れを付けてみたに過ぎない。
と言っても、書いている内容そのものに、それほど大きな問題は無いと思う。
もちろん、猫との会話が可能かどうかは現段階では完全に未知数ではあるが、それが可能である事は、お互いに知性を持ち合わせている時点で可能であると断言できる。
その方法については進歩を待たねばならないだろうが。
面白い事を書けるようになったほうが色々と都合が良いが、道のりは遠い
だから、このタイトルは間違っていないと言う事になる。
データ
ブログへの3月の総アクセス数 26
(ちなみに4月に入ってからの総アクセス数は 1)
気温 23.2度
湿度 60%
定点観測を続けよう。
その話なら猫に聞こう
頭の中が空っぽで、何も思い浮かばない時は、何をしよう。
その答えは人それぞれ色々あるが、私の場合は生まれてこの方、頭の中が空っぽで無かった事がほとんど無い。
常に何も無い状態で、たまに炭酸水の気泡のように、何か小さなものが少しだけ現れて、すぐに消える。
これは恐らく、構造的なもので、一生こんな感じなのだと思う。
今これを書いている瞬間も、この文章の内容が頭にある訳では無く、瞬間的に発生する言葉を、ただ単に打ち込んでいるに過ぎない。
この文字が何処からやって来るのか、どの様な理由でこの文章が書かれているのか、よく分からない。
今の瞬間も頭の中には何も無い。
アイディアが無限に沸いてくると言う人がいるが、そのような人とは正反対で、アイディアが永遠に生じない存在で有る気がしてならない。
ほぼランダムに言葉を羅列する事で物語のように感じられる何物かを作る事は出来るが、それは意図したものでは無く、炭酸水の泡粒に過ぎない。
面白い事を思いつく人間は、根本的に何かが違うのではないかと考えざるを得ない。
そんな事を考えているうちに、いっその事、猫にでも聞いた方が早いのではないかと思えてきた。
何故猫なのか、それは簡単で、猫は面白いと言う概念を、人間の外から客観的に観察する事が出来る。
人間が物理的存在であり、究極的には数式で全てを記述できるのならば、自分が面白いかどうかを自分で判断する事が出来ない可能性がある。
ただし、私が自分がどの様な数式で構成されているのかが分からないので、正確な判断は出来ない。
と言うことで、猫にでも聞いてみた方が良いのではないかと考えている。
ただし、ここには大きな問題があり、それは私の周りに猫がいないこと、そして、猫の言葉がわからない事だ。
恐らく人間のような高度な言語を利用してはいないだろうが、それでも明らかに思考能力はあり、そして高度なコミュニケーション能力を有している。
現状ではそれを正確に人間の言葉に翻訳する方法が存在していないが、猫にも明らかな知性が存在しており、それを言語化する事は可能なはずだ。
知性は情報を出力可能であり、情報とは規則性を持ったパターンで構成される。
あとはそれを人間の言葉、若しくは計算式にでも変換すればよい。
人間のような言語とは全く違った方法、例えば数式で物事を考えたり、和音や光の干渉を思考の基本言語として利用しているかもしれない。
しかし、どの様な方法であれ、単純に理屈の上で考えれば、必ず理解できる日が来るのは間違いない。
猫と話せる日が来たら、こう聞こう。
「私は面白いか」と。
いや、私が面白いかと言うよりは、私の書くこの文章は面白いか、こう書くべきだろう。
その場合、この文章を猫に理解出来るように翻訳する事も必要になり、そしてそれを何らかの方法で伝えなくてはならない。
文字で伝える事は難しいだろうから、音や匂いや光で伝える事になるはずだ。
その場合、恐らくその媒体は猫を模したモノになるはずだ。
猫型の本、と言う訳だ。
猫型の本を読ませる事によって、この文章を猫に伝える事ができれば、これが面白いかどうかが、寝子と言う、人間の外の系によって、いわば計算され、そして結果を得る事が可能になる。
猫が人間の系の外で面白いと判断すれば、それは私個人の勘では無く、論理的に面白いと言う事が、計算によって証明される瞬間でもある。
そのような、人間以外の系を外部に持つ事により、人間、そして猫も大いに発展飛躍する事が出来るはずだ。
今からその日が楽しみだ。
しかし目下の課題は、その時に向けて、私が何が面白いと思われそうな何かを作り出さねばならないと言う事だ。
ここまでで、今の所面白いといえる文章は一文字も書けていない。
とりあえず瞬間的に浮かんだ事を羅列しつつ、それらに即興で流れを付けてみたに過ぎない。
と言っても、書いている内容そのものに、それほど大きな問題は無いと思う。
もちろん、猫との会話が可能かどうかは現段階では完全に未知数ではあるが、それが可能である事は、お互いに知性を持ち合わせている時点で可能であると断言できる。
その方法については進歩を待たねばならないだろうが。
面白い事を書けるようになったほうが色々と都合が良いが、道のりは遠い
ざっきをたしなむ
三寒四温。
4月になった。
子供の頃の疑問は、結局いつまで経っても解決されない。
それには様々な理由があるが、科学技術の問題、理性の限界、問いそのものの間違い、など様々だ。
そして、答えらしきものもたまに目にする事もあるが、それが本当に答えなのかは分からない。
運の量
幸運と不運の総量は等しい、という考えがあるが、単純に考えれば、それは完全な誤りだ。
サイコロで1の目が出たら、その次にサイコロを振った時、1の出る確率は低くなるだろうか。
もちろん、1の出る確率は常に1/6であり、1億回連続で1が出た後も、次に1が出る確率は1/6である。
このごく単純な理屈からすれば、幸運と不運の総量が等しいなどとは考えられない。
もし、幸運と不運の量が等しいのだとすれば、それは、単純な確率以外の要素が関わっていると言うことであり、それは「運」ではない。
いわゆる「幸運」が続く人には、「運」以外の理由が絶対に存在する。
それはサイコロの例からも明らかだ。
いわゆる「不運」が続く人には、「運」以外の理由が絶対に存在する。
それはサイコロの例からも明らかだ。
サイコロは常に1/6の確率で目が出る。
単純な「運」で説明出来ない幸運や不運には、必ず理由が存在する。
そして、それは単に理由が説明出来ないので「運」と言ってしまっているに過ぎない。
幸運が続くからと言って恐れる必要は全く無い。
それは丁半博打の結果でも、総量が決まっているものでもない。
不運が続くからと言って油断してはならない。
それは丁半博打の結果でも、総量が決まっているものでもない。
そこには必ず原因となる何かが存在し、そして変える事が可能なはずだ。
人間には単純な「運」のサイコロの出目を調節する事は出来ない。
しかし「幸運」と呼ばれる現象を引き起こす方法は必ず存在する。
そしてそれは、決してオカルトでは無く、注意深く日常を観察していればその糸口が必ず見つかるはずだ。
ただし、それを万人向けに簡単に説明する事など出来ない。
世界はそんなに単純ではない。
その方法は自分で見つけるしかない。
すべての人間は「オリジナル」であり、他と代替出来ないのだから。
しかし、分かりきった事を書くだけでは面白い文章とは言い難い。
書く行為そのものが面白い事になってしまっているので、その内容ついて、面白いかどうかが、冷静に判断しにくい。
そんな事はどうでも良いので、とりあえず、何か書いてみよう。
おもしろい
普段面白いと感じている事を考え、それを自分で作り出せば面白いものが出来上がるはずだ。
面白いと感じている事は・・・、パッとは思いつかない。
音楽やゲームとかは面白いと感じるけど、それはブログで文字にして表すことが出来ない。
評論のような事をすれば、間接的に書く事は可能だけど、音楽そのものを文字で表す事は出来ない。
詩を書いて、それによって音楽を部分的に表現すると言う事は可能かもしれないけど。
しかし、詩ほど人気の無い文章も他に無いと思う。
私自身、他人の書いた詩を積極的に読むという習慣は無い。
音楽を表現する方法の一つとして詩を使うのは有効かも知れないが、だからと言ってそれが音楽と同じ位面白いかといえば、私にとっては、そうとは言えない。
面白くなければ、ほとんど書く価値は無い。
このブログは未来の知性のデータ源として存在させる意義を感じているが、もう少し面白みのある文章に出来れば、21世紀においても存在意義が出てくる。
どんなにつまらない文章でも、山ほど書けばそのうちの一つ位は面白いものが見つかるかもしれない。
今の所、一度も面白い文章と言うものを書けた事はないが、そのうち書けるかもしれないので、そのうちが来るように、色々書いてみよう。
面白いものが出てくる為に。
今、ふと思いついたことがある。
それは、人間はそれほど面白い事を必要としていないのではないか、と言う事だ。
日常生活を考えてみると、それほど「面白い事」に浸っているわけではないが、それでも特に支障なく生きている。
私の場合も、衣食住が満たされていれば、とりあえず生きて行く事ができる。
もちろん、面白い事があれば、より良いとは思うが、面白い事はあくまでおやつのようなもので、それが無くては死んでしまうと言うものでも無い。
まず必要なのが生活するのに必要なもの、そして面白い事は、それらのついでにあれば楽しいと言う程度のものだ。
そして、おやつはすでに山のように存在していて、供給過剰もいい所で、特にネット上には無料の「面白い」が膨大にある。
そんな中で、新たなる「面白い」をわざわざ作り出す必要があるのか。
この前のブログにも書いたが、あえて面白く無い事を書いて見ると言う事も、ある意味面白い事のような気がする。
世界には二つの事柄がある。
それは、自分の事とそれ以外の事だ。
それ以外の事はそれ以外の人が書くと思うので、今私が書くべきは、自分自身に関する事だ。
と言っても、日記を書くと言うのでは無く、この目から見えた世界について、そしてこの脳内にある世界について書く事が良いと思う。
そして、それははっきり言って面白い事では無い。
でも、面白い事ならばこの世界に溢れているのだから、面白く無い事が少し増えた所で、この世界がつまらなくなる訳ではないから、とりあえず書こうと思う。
正論
昔から正論を言う事が好きだったが、最近はそれに疑問を感じつつある。
最大の理由が、「正論」が攻撃的で独善的だからだ。
確かに正しいと思われる考えは存在すると思うし、それが嫌いでは無い。
しかし、正論ばかりの世界になると、とても余裕が無い世界になる気がしてならない。
まるで正論と言うプログラミング言語で書かれたシミュレーションの世界のようで、正しくて生きにくくてつまらない世界になってしまう気がしてならない。
厄介な事に、正論と言うものはじつに正しい。
理屈の上では全ての考えは正論に行き着くといっていい。
そして、正論と言うのは論理的にも、そして道徳的にも正しく、一見、最適解のように見える。
しかし、人間は最適解に最適化された存在ではない。
時には理屈に合わない事もしたくなるし、正しければそれで良いと言うものでもない。
正論しか通用しない世界になったら、私は死んでしまうと思う。
存在自体が正しくないから。
それなのに正論を考え、それを発している。
時には正論も必要な事もあるが、そればかりに縛られると、自分自身の存在を肯定出来なくなる。
正論と言うのはそういうものだから。
だから、まじめな人間ほど正論を考え、それを自分に向けて発し、そして憂鬱な気持ちになる。
そして、正論を他人にもぶつけ、そしてぶつけられた相手も憂鬱になる。
それは当然である。
人間は正論だけで説明できるような簡単な存在ではないのだから。
憂鬱な気持ちの時は、正論を自分に向けて吐いていないか確かめてみるのがよい。
正論なんてものは、本当に狭い範囲でしか物事を捉えていない。
その狭い範囲では正しいかも知れないが、人間はもっともっと広い存在だ。
正論の総量規制をしよう
ゆめ
私は毎晩夢を見る。
ほとんどが何の変哲も無い日常生活の夢で、特にこれと言っておかしな事が起こるわけでもない。
しょこたんとか、猫とか、私の好きなものが出てくることが多い。
しょこたんとはゲームをしたりちょっとした雑談をしたりする。
昨日の夢では、しょこたんとスーパーファミコンをしたり、猫が私の刺身を食べていたりした。
ここで一つ気が付いたことがある。
夢は、現実の世界と繋がっている。
現実の世界に存在しないものは夢の中にも現れない。
夢は現実の延長線上にある。
もちろん、私はしょこたんと親しいわけでも無いし、猫も飼っていない。
夢の世界は可能性の世界だ。
ゲームと言っても良いかもしれない。
ゲームの世界は現実には存在していないが、限りなく現実に近く、現実と繋がっている。
夢も同じで、夢が単独で存在しているのでは無く、現実の世界と繋がっている。
夢が平凡なのは、現実が平凡だからで、悪夢を見るのは、現実に怖い何かがあるからだ。
そして、現実が夢に影響を与えるのと同じように、夢が現実に影響を与えているかもしれない。
なぜなら、自分と言う存在は、夢でも現実でも一つなのだから。
4月になった。
子供の頃の疑問は、結局いつまで経っても解決されない。
それには様々な理由があるが、科学技術の問題、理性の限界、問いそのものの間違い、など様々だ。
そして、答えらしきものもたまに目にする事もあるが、それが本当に答えなのかは分からない。
運の量
幸運と不運の総量は等しい、という考えがあるが、単純に考えれば、それは完全な誤りだ。
サイコロで1の目が出たら、その次にサイコロを振った時、1の出る確率は低くなるだろうか。
もちろん、1の出る確率は常に1/6であり、1億回連続で1が出た後も、次に1が出る確率は1/6である。
このごく単純な理屈からすれば、幸運と不運の総量が等しいなどとは考えられない。
もし、幸運と不運の量が等しいのだとすれば、それは、単純な確率以外の要素が関わっていると言うことであり、それは「運」ではない。
いわゆる「幸運」が続く人には、「運」以外の理由が絶対に存在する。
それはサイコロの例からも明らかだ。
いわゆる「不運」が続く人には、「運」以外の理由が絶対に存在する。
それはサイコロの例からも明らかだ。
サイコロは常に1/6の確率で目が出る。
単純な「運」で説明出来ない幸運や不運には、必ず理由が存在する。
そして、それは単に理由が説明出来ないので「運」と言ってしまっているに過ぎない。
幸運が続くからと言って恐れる必要は全く無い。
それは丁半博打の結果でも、総量が決まっているものでもない。
不運が続くからと言って油断してはならない。
それは丁半博打の結果でも、総量が決まっているものでもない。
そこには必ず原因となる何かが存在し、そして変える事が可能なはずだ。
人間には単純な「運」のサイコロの出目を調節する事は出来ない。
しかし「幸運」と呼ばれる現象を引き起こす方法は必ず存在する。
そしてそれは、決してオカルトでは無く、注意深く日常を観察していればその糸口が必ず見つかるはずだ。
ただし、それを万人向けに簡単に説明する事など出来ない。
世界はそんなに単純ではない。
その方法は自分で見つけるしかない。
すべての人間は「オリジナル」であり、他と代替出来ないのだから。
しかし、分かりきった事を書くだけでは面白い文章とは言い難い。
書く行為そのものが面白い事になってしまっているので、その内容ついて、面白いかどうかが、冷静に判断しにくい。
そんな事はどうでも良いので、とりあえず、何か書いてみよう。
おもしろい
普段面白いと感じている事を考え、それを自分で作り出せば面白いものが出来上がるはずだ。
面白いと感じている事は・・・、パッとは思いつかない。
音楽やゲームとかは面白いと感じるけど、それはブログで文字にして表すことが出来ない。
評論のような事をすれば、間接的に書く事は可能だけど、音楽そのものを文字で表す事は出来ない。
詩を書いて、それによって音楽を部分的に表現すると言う事は可能かもしれないけど。
しかし、詩ほど人気の無い文章も他に無いと思う。
私自身、他人の書いた詩を積極的に読むという習慣は無い。
音楽を表現する方法の一つとして詩を使うのは有効かも知れないが、だからと言ってそれが音楽と同じ位面白いかといえば、私にとっては、そうとは言えない。
面白くなければ、ほとんど書く価値は無い。
このブログは未来の知性のデータ源として存在させる意義を感じているが、もう少し面白みのある文章に出来れば、21世紀においても存在意義が出てくる。
どんなにつまらない文章でも、山ほど書けばそのうちの一つ位は面白いものが見つかるかもしれない。
今の所、一度も面白い文章と言うものを書けた事はないが、そのうち書けるかもしれないので、そのうちが来るように、色々書いてみよう。
面白いものが出てくる為に。
今、ふと思いついたことがある。
それは、人間はそれほど面白い事を必要としていないのではないか、と言う事だ。
日常生活を考えてみると、それほど「面白い事」に浸っているわけではないが、それでも特に支障なく生きている。
私の場合も、衣食住が満たされていれば、とりあえず生きて行く事ができる。
もちろん、面白い事があれば、より良いとは思うが、面白い事はあくまでおやつのようなもので、それが無くては死んでしまうと言うものでも無い。
まず必要なのが生活するのに必要なもの、そして面白い事は、それらのついでにあれば楽しいと言う程度のものだ。
そして、おやつはすでに山のように存在していて、供給過剰もいい所で、特にネット上には無料の「面白い」が膨大にある。
そんな中で、新たなる「面白い」をわざわざ作り出す必要があるのか。
この前のブログにも書いたが、あえて面白く無い事を書いて見ると言う事も、ある意味面白い事のような気がする。
世界には二つの事柄がある。
それは、自分の事とそれ以外の事だ。
それ以外の事はそれ以外の人が書くと思うので、今私が書くべきは、自分自身に関する事だ。
と言っても、日記を書くと言うのでは無く、この目から見えた世界について、そしてこの脳内にある世界について書く事が良いと思う。
そして、それははっきり言って面白い事では無い。
でも、面白い事ならばこの世界に溢れているのだから、面白く無い事が少し増えた所で、この世界がつまらなくなる訳ではないから、とりあえず書こうと思う。
正論
昔から正論を言う事が好きだったが、最近はそれに疑問を感じつつある。
最大の理由が、「正論」が攻撃的で独善的だからだ。
確かに正しいと思われる考えは存在すると思うし、それが嫌いでは無い。
しかし、正論ばかりの世界になると、とても余裕が無い世界になる気がしてならない。
まるで正論と言うプログラミング言語で書かれたシミュレーションの世界のようで、正しくて生きにくくてつまらない世界になってしまう気がしてならない。
厄介な事に、正論と言うものはじつに正しい。
理屈の上では全ての考えは正論に行き着くといっていい。
そして、正論と言うのは論理的にも、そして道徳的にも正しく、一見、最適解のように見える。
しかし、人間は最適解に最適化された存在ではない。
時には理屈に合わない事もしたくなるし、正しければそれで良いと言うものでもない。
正論しか通用しない世界になったら、私は死んでしまうと思う。
存在自体が正しくないから。
それなのに正論を考え、それを発している。
時には正論も必要な事もあるが、そればかりに縛られると、自分自身の存在を肯定出来なくなる。
正論と言うのはそういうものだから。
だから、まじめな人間ほど正論を考え、それを自分に向けて発し、そして憂鬱な気持ちになる。
そして、正論を他人にもぶつけ、そしてぶつけられた相手も憂鬱になる。
それは当然である。
人間は正論だけで説明できるような簡単な存在ではないのだから。
憂鬱な気持ちの時は、正論を自分に向けて吐いていないか確かめてみるのがよい。
正論なんてものは、本当に狭い範囲でしか物事を捉えていない。
その狭い範囲では正しいかも知れないが、人間はもっともっと広い存在だ。
正論の総量規制をしよう
ゆめ
私は毎晩夢を見る。
ほとんどが何の変哲も無い日常生活の夢で、特にこれと言っておかしな事が起こるわけでもない。
しょこたんとか、猫とか、私の好きなものが出てくることが多い。
しょこたんとはゲームをしたりちょっとした雑談をしたりする。
昨日の夢では、しょこたんとスーパーファミコンをしたり、猫が私の刺身を食べていたりした。
ここで一つ気が付いたことがある。
夢は、現実の世界と繋がっている。
現実の世界に存在しないものは夢の中にも現れない。
夢は現実の延長線上にある。
もちろん、私はしょこたんと親しいわけでも無いし、猫も飼っていない。
夢の世界は可能性の世界だ。
ゲームと言っても良いかもしれない。
ゲームの世界は現実には存在していないが、限りなく現実に近く、現実と繋がっている。
夢も同じで、夢が単独で存在しているのでは無く、現実の世界と繋がっている。
夢が平凡なのは、現実が平凡だからで、悪夢を見るのは、現実に怖い何かがあるからだ。
そして、現実が夢に影響を与えるのと同じように、夢が現実に影響を与えているかもしれない。
なぜなら、自分と言う存在は、夢でも現実でも一つなのだから。
嘘を付く努力をしよう
と、言うわけで、4月1日は嘘を付く努力をする日だ。
何故この日に嘘をついてもよくなったのかは不明らしいが、嘘を付くのは意外と大変だ。
もちろん簡単な嘘ならば容易につく事が出来る。
「昨日、宇宙人のUFOに乗って木星に遊びにいったよ」
これは明らかな嘘だが、実はこれが嘘だと言う事が嘘である可能性もある。
嘘のような事が現実では起きるので、現実に起こりそうな嘘を付くと、嘘っぽく見えてしまう。
嘘を付くのは大変だ。
今日は嘘の上達を目指して頑張ってみよう。
宇宙誕生は無かった
宇宙とは、時間と空間と言われており、その宇宙の誕生があるならば、その前が存在するはずであり、その以前には時間も空間も無かったはずである。
時間も空間もなければ宇宙は一体どうやって誕生できたのだろうか。
ビッグバンが起きたとしても、それが起きるにはその為の場が必要だ。
宇宙とは時間と空間を表すものであるのならば、それが無いと言う事は何物も存在しないはずだ。
と、ここまではよくある考えだが、この疑問は根本的かつ簡単な間違えが元で生じている。
それは宇宙の定義だ。
宇宙の定義が曖昧なために、このような簡単なミスが生まれる。
宇宙の定義を「時間と空間」では無く、「あらゆる事象そのもの」と定義すれば、宇宙の誕生前を問う必要はなくなる。
ビッグバンと言う事象も宇宙であれば、それが起こる前の量子の海の揺らぎも宇宙であり、宇宙の定義を空間や時間などと狭める事が根本的にして初歩的な過ちなのだ。
つまり、宇宙は誕生するものでは無く、消え去るものでも無い。
宇宙とは「出来事」であり、空間や時間や物質は、その出来事の副産物でしか無い。
人間にわかるのは、その出来事によって生じた空間や時間や物質を見ながら、何故その出来事が起きたのだろうと推測する事だけで、その出来事が何故起きたのかを知る術は無い。
ただ一つ言えるのは、この空間や時間と言うものは単なる宇宙の副産物に過ぎないと言う事だ。
うそつきはうそつきか考える
うそつきは嘘をついていると言う自覚があるうちはうそつきだが、その自覚が無い場合、はたしてうそつきと言えるのか。
たとえば、「りんご」と言う言葉を発した瞬間に、それはあの果物の林檎とは違った概念上の存在にしてしまうので、あの果物を「りんご」と言う事は真実ではないと言う事になる。
では「りんご」と言ってあの赤い果物を指差した人間が嘘をついていると言えるのか。
林檎を指さして梨と意図的に言うのは嘘をついている事になるが、20世紀梨を見て青林檎と間違えた場合、それを青林檎と言った人間をうそつきと言えるか。
20世紀梨を青林檎と本気で間違えた人間と、自分が嘘をついていると言う自覚が無いうそつきとの違いは何処にあるのか。
両者とも、自分が嘘をついていると言う自覚は無く、自分の認識を正しいと信じているが、事実は違う。
嘘と自覚している者はうそつきと言えるが、嘘と自覚していない者をうそつきとは言えない。
それは単に「間違えている人」でありうそつきでは無い。
うそつきが本当にうそつきかを見破るのは困難だ。
なぜなら、その嘘が単なる間違いから生じたものなのか、意識的に嘘をついているのかを正確に判別しなくてはならないからだ。
「りんご」と言ってあの果物を指差している人間に嘘をつくつもりは全く無いはずだ。
しかし、あの果物を「りんご」という言葉で表現した瞬間に、それは間違いになる。
あの果物を「りんご」と言う人間はつまり、全員間違えている。
しかし嘘をつく意思は無い。
つまり言葉を使う人間は、多かれ少なかれ、全員間違っている。
間違ってはいるが、それでもうそつきとは言われない。
うそとは、意識的に間違った情報を伝える行為であり、無意識な過ちは含まれない。
目の前にいるうそつきと思われる人物が、自分の言動を本気で信じており、偽りであるとの自覚が無い場合、その人をうそつきとは言えない。
うそつきになりたくなければ、自分の言う事全てを自分で信じて疑わなければよい。
その状態では少なくともうそつきでは無く、せいぜい何かを間違っている愚か者、であり、そしてまた、間違いを犯さない人間は一人もいない。
全ての人は、うそつきか愚か者かのどちらかである。
または両方。
1985
このブログは、実は1985年に書いている。
ではどうやって掲載しているのか。
それは簡単で、この文章そのものは1985年当事に紙のノートに書いており、それを適宜ブログへ打ち込んでいるだけなのだ。
細かい固有名詞など、例えば「ブログ」などの言葉は書き換えているが、それ以外は一字一句1985年に書いたノートの内容をそのまま打ち込んでいる。
1985年当事、未来の世界を予測しつつ、その時に実現するであろう事柄等を大学ノートにひたすらに書き込んでおいたモノを、今こうやってブログとして発表している。
このブログで時事ネタを扱わないのはその為で、流石に全てのニュースに適合する文章を網羅しているわけでは無いので、やや時代を感じにくい文章となっているかもしれない。
このノートはまだ膨大に存在するので、当分はブログへの書き込みは続くと思う。
今日は4月1日なので、上の文章は根も葉もないうそっぱちだが、実はこの中に一つだけ本当の事が書かれている。
それは来年の4月1日にでも発表しよう。
何故この日に嘘をついてもよくなったのかは不明らしいが、嘘を付くのは意外と大変だ。
もちろん簡単な嘘ならば容易につく事が出来る。
「昨日、宇宙人のUFOに乗って木星に遊びにいったよ」
これは明らかな嘘だが、実はこれが嘘だと言う事が嘘である可能性もある。
嘘のような事が現実では起きるので、現実に起こりそうな嘘を付くと、嘘っぽく見えてしまう。
嘘を付くのは大変だ。
今日は嘘の上達を目指して頑張ってみよう。
宇宙誕生は無かった
宇宙とは、時間と空間と言われており、その宇宙の誕生があるならば、その前が存在するはずであり、その以前には時間も空間も無かったはずである。
時間も空間もなければ宇宙は一体どうやって誕生できたのだろうか。
ビッグバンが起きたとしても、それが起きるにはその為の場が必要だ。
宇宙とは時間と空間を表すものであるのならば、それが無いと言う事は何物も存在しないはずだ。
と、ここまではよくある考えだが、この疑問は根本的かつ簡単な間違えが元で生じている。
それは宇宙の定義だ。
宇宙の定義が曖昧なために、このような簡単なミスが生まれる。
宇宙の定義を「時間と空間」では無く、「あらゆる事象そのもの」と定義すれば、宇宙の誕生前を問う必要はなくなる。
ビッグバンと言う事象も宇宙であれば、それが起こる前の量子の海の揺らぎも宇宙であり、宇宙の定義を空間や時間などと狭める事が根本的にして初歩的な過ちなのだ。
つまり、宇宙は誕生するものでは無く、消え去るものでも無い。
宇宙とは「出来事」であり、空間や時間や物質は、その出来事の副産物でしか無い。
人間にわかるのは、その出来事によって生じた空間や時間や物質を見ながら、何故その出来事が起きたのだろうと推測する事だけで、その出来事が何故起きたのかを知る術は無い。
ただ一つ言えるのは、この空間や時間と言うものは単なる宇宙の副産物に過ぎないと言う事だ。
うそつきはうそつきか考える
うそつきは嘘をついていると言う自覚があるうちはうそつきだが、その自覚が無い場合、はたしてうそつきと言えるのか。
たとえば、「りんご」と言う言葉を発した瞬間に、それはあの果物の林檎とは違った概念上の存在にしてしまうので、あの果物を「りんご」と言う事は真実ではないと言う事になる。
では「りんご」と言ってあの赤い果物を指差した人間が嘘をついていると言えるのか。
林檎を指さして梨と意図的に言うのは嘘をついている事になるが、20世紀梨を見て青林檎と間違えた場合、それを青林檎と言った人間をうそつきと言えるか。
20世紀梨を青林檎と本気で間違えた人間と、自分が嘘をついていると言う自覚が無いうそつきとの違いは何処にあるのか。
両者とも、自分が嘘をついていると言う自覚は無く、自分の認識を正しいと信じているが、事実は違う。
嘘と自覚している者はうそつきと言えるが、嘘と自覚していない者をうそつきとは言えない。
それは単に「間違えている人」でありうそつきでは無い。
うそつきが本当にうそつきかを見破るのは困難だ。
なぜなら、その嘘が単なる間違いから生じたものなのか、意識的に嘘をついているのかを正確に判別しなくてはならないからだ。
「りんご」と言ってあの果物を指差している人間に嘘をつくつもりは全く無いはずだ。
しかし、あの果物を「りんご」という言葉で表現した瞬間に、それは間違いになる。
あの果物を「りんご」と言う人間はつまり、全員間違えている。
しかし嘘をつく意思は無い。
つまり言葉を使う人間は、多かれ少なかれ、全員間違っている。
間違ってはいるが、それでもうそつきとは言われない。
うそとは、意識的に間違った情報を伝える行為であり、無意識な過ちは含まれない。
目の前にいるうそつきと思われる人物が、自分の言動を本気で信じており、偽りであるとの自覚が無い場合、その人をうそつきとは言えない。
うそつきになりたくなければ、自分の言う事全てを自分で信じて疑わなければよい。
その状態では少なくともうそつきでは無く、せいぜい何かを間違っている愚か者、であり、そしてまた、間違いを犯さない人間は一人もいない。
全ての人は、うそつきか愚か者かのどちらかである。
または両方。
1985
このブログは、実は1985年に書いている。
ではどうやって掲載しているのか。
それは簡単で、この文章そのものは1985年当事に紙のノートに書いており、それを適宜ブログへ打ち込んでいるだけなのだ。
細かい固有名詞など、例えば「ブログ」などの言葉は書き換えているが、それ以外は一字一句1985年に書いたノートの内容をそのまま打ち込んでいる。
1985年当事、未来の世界を予測しつつ、その時に実現するであろう事柄等を大学ノートにひたすらに書き込んでおいたモノを、今こうやってブログとして発表している。
このブログで時事ネタを扱わないのはその為で、流石に全てのニュースに適合する文章を網羅しているわけでは無いので、やや時代を感じにくい文章となっているかもしれない。
このノートはまだ膨大に存在するので、当分はブログへの書き込みは続くと思う。
今日は4月1日なので、上の文章は根も葉もないうそっぱちだが、実はこの中に一つだけ本当の事が書かれている。
それは来年の4月1日にでも発表しよう。
擬似自由意志
今日も、自由に書こう。
人間の持つ自由意志は表面的なものではあるけど、真の自由と区別が付かないのだから、これも自由と呼んでも良いと思う。
宇宙誕生のずっと前から、私はこの文章を書くことが決まっていた。
しかし、これを書くと言う事を、過去の事象から推測する事が今の人間には出来ないので、この文章は自由に書かれていると考えても問題無い。
過去との因果関係を証明出来ず、本人も自由に書いていると実感しているのだから、これは自由以外の何ものでも無いと見えても当然であり、否定する理由も無い。
しかし、今のこの宇宙では、計算外の現象が勝手に起きていると言う証拠は無く、おそらく厳密に物理法則に従って全ての出来事はおきていると考えられている。
宇宙が正確に計算できる事象のみで構成されているならば、その始まりの瞬間に宇宙の終焉までの全素粒子の挙動は決定している筈だ。
真の自由意志が存在することを証明するには、自由意志があらゆる物理現象の影響を受けずに発生する事を証明する必要があり、恐らく人間にそれを証明する事は出来ない。
宇宙の外に飛び出して、この宇宙の実体を理解し解析できる文明を築く事が出来れば、あるいは証明可能かも知れないが、それはまだ当分先の話しだ。
それまでの間、自由意志は「自由では無いと言う証明が出来ないので自由意志はあると言っても反証されない」という消極的な方法でしか支えられない。
それでも、例えば擬似乱数でも十分に実用的な乱数であるように、擬似自由意志でも、人間にとっては十分に実用的なので問題は無い。
この文章は書かれる事は決まってはいたが、書かれる事を知っていた人間は一人もおらず、恐らくこの宇宙のいかなる文明を持つ種族によっても、正確には予測されては居なかった筈だ。
この宇宙で生きるなら、そのくらいの自由で十分だ。
ただ、物理法則に関係なく人間に自由意志を発生させる何かが存在し、宇宙の外から人間に干渉している可能性を否定する事も出来ない。
その場合、この意志は人間の意志では無く、その宇宙の外の何者かの意志である、と言う事になり、それを人間の意志と呼べるのか、と言う事が問題になり、その何者かにとっては自由意志であっても、人間にとっては自由意志とは呼べない、と言える。
どこかに自由意志は存在するかもしれないが、人間が自由意志を持っているかどうか、とは別問題だ。
これを読むであろう未来の知性は、こんな簡単な問題はとっくに解決しているかもしれないし、もしかしたらそれ以前にそんな事に関心すらないかもしれない。
しかし、昨日寝る前にそんな事がふと頭をよぎったので、とりあえず書く事にした。
閃きや直感、と言うものが脳で生じるのならば、それが発生する原因が存在するはずだ。
そして、脳は外部からの刺激によって様々な反応を示す。
ひらめきや直感は、誰もが常に感じ続けているのだが、その発生頻度があまりにも高く、そしてすぐに忘れてしまうのではないかと考えている。
脳はこの瞬間にも膨大な量の刺激を受け、それに反応している。
そして、その刺激から、一定の確率で、直感やひらめきと言った、論理の飛躍が生じる。
しかし、その飛躍は外部の刺激等から生じた、いわば脳の誤作動のようなものなので、すぐに訂正され、記憶の中から消し去られる。
そしてその様なひらめきが常に膨大な回数生じており、それを半ば自動的に修正排除する仕組みが脳には備わっていて、その為に人間は理性を保てている。
しかし、外部からの刺激をある程度減らし、そして脳の誤作動に気が付くように自分の意識を注意深く観測すれば、普段は消し去られてしまう面白いものが見つけ出せる。
それは、お風呂に入っている時だったり、眠っている時だったり、瞑想している時だったり、そんな時だ。
そして、そんな時にこそ色々な事が頭の中にひらめく。
脳の誤作動を見逃さず、それを積極的に利用すれば、もっと面白い事も出来ると私は思う。
こんな事を書いても、特に何の意味もないが、それでも書いている瞬間だけはつまらなく無いので、それだけでも書く価値はある。
雑記を打ち込もう
春だ。
何億度目かの初めての春だ。
そして一度きりの春だ。
しょこたんのニコ生「しょこたんのヲ」は一般会員でははじかれて見られないので、TSで見ることにする。
そういえば、ここ数年カップめんが主食だ。
ガスの無い環境だと、調理はほとんど出来ない。
そろそろ電子レンジ位は揃えても良いかもしれない。
電子レンジがあれば、大抵の物体は加熱できる。
加熱できれば、何となく調理のようなものを、再現できる。
ただし再現の精度は低く、やはり火を使った加熱による調理には及ばない。
以前は「おいしんぼ」とかの料理漫画をよく読んだが、最近では、どんな料理漫画が流行っているのか。
料理漫画は、食べ物を食べる事の代替行為として読んでいるのではないかと言う気がする。
冒険できないから冒険物語を読む。
料理漫画を読む理由は、料理に興味があると言うよりも、美味しいものを食べたいが食べられないと言うストレスを緩和する為だ。
最近私が料理の漫画をあまり読まなくなったのは、美味しいものを食べられるようになったからでは無く、料理漫画を読んでもそれが代替行為となりえなくなった為だと思われる。
料理漫画100冊よりも、1口の本物の料理だ。
つまらなくなくする
人生のテーマだ。
小学生の頃の口癖が「つまらない」で、よく先生に叱られた。
しかし事実つまらなかったのだから仕方が無い。
それから今まで一貫して、ほとんどの事がつまらない。
つまらないなら面白くすれば良いのでは、と言う意見はもっともだが、何が面白いかがよく分からない。
そんな中で、数少ない面白いことの一つが、こうやって何かを書く事だ、あとゲームとか。
面白くないのだから、面白いを作らざるを得ない。
宇宙と意識の同一性
あんこを食べてトマトジュースを飲む。
糖分とビタミンの摂取は不可欠だ。
能力も簡単に摂取出来れば良いのだけれど。
コンピュータをエミュレートする事は可能だ。
昔のPCと同等の事をソフトウェアで再現できる。
人間の意識が情報であり、脳がそれを処理する装置ならば、必ずそれもエミュレートできる。
意識が宇宙の法則の外にあるナニモノかの作用によって生じているのならともかく、今の所その様な証拠は無く、脳も通常の生物の細胞の集合体としか見えない。
ならば細胞とそれによる構造を再現できれば、意識を再現できない理由は無い。
人工的な意識をコンピュータ内で作り出せれば、その瞬間に人間の意識は単なる数式の塊、変数の羅列でしかなくなる。
コンピュータが自我を持つと言う事は、同時に魂を絵体の知れない概念から解き放つ事にもなる。
そして、具体的な数値、データを魂とする事になる。
その結果、あらゆる存在が本質的に持つ「情報」を「魂」とし、人間のみならず、すべての生命、全ての存在、宇宙そのものが「魂」そのものであると言う結論に達する。
人工意識がコンピュータ内に生まれた瞬間こそが、人間があらゆる生命と、そして宇宙と、一つになる瞬間である。
というようなほとんど何の意味も無い戯言を書いても、構いはしないじゃないかと思う。
だって、大体の事はそんな感じなんだから。
大抵の問題は、答えの候補が既に幾つか存在しており、その選択に迷っているだけ、と言う事がほとんどだ。
実行可能な事は、様々な条件により制限され、無限の選択肢がある事など稀だ。
未来を知る事は出来ず、それを計算によって導き出すことも、世界の複雑さから考えると到底不可能だ。
となると、人間に出来るのは幾つかの選択肢の中からいずれかを選ぶ事だけだ。
難しいのが、選択肢が一つも見つかっていない問題で、適切な選択肢を発見するまでが最も困難な作業だ。
迷える問題は大した問題ではない、迷えない問題の方が遥かに問題だ。
目下最大の問題は、存在するに値するほどの何ものをも作り出すことが出来ない点だ。
上記の文章はあまりにも当たり前すぎて、いわゆる「面白い」点が一切無い。
分かりきった当たり前の事実を羅列しているに過ぎない。
これでは21世紀の人間はおろか、未来の知性にとっても、何の意味も無い。
支離滅裂な単語のパズルをする事は簡単だが、それが面白いとも思えない。
文章として意味を成すことが大前提であり、その上で面白くなければならない。
面白いというのは、感情を動かしたり、心を動かしたり、そんなものの事だと思うが、その様なものを作り出した事が一度も無い。
例えば物語には文法が存在し、その通りに作ることで「面白い」物語を論理的に構成する事はある程度可能だ。
ただ、そのままだと「よくある話」になってしまう。
よくある話、までたどり着ければまだ良いが、そこまで作るにはそれなりの能力が必要だ。
残念ながら、よくある話、すら作るには能力が不足している。
他のあらゆる「面白い」事についても、それを作るための能力が不足しており、それを得るのに数千年は必要だ。
数千年は単なる勘だが、5年や10年でどうなるものでも無いとは断言できる。
では何故書くのか、それは、他にやりたい事が無いからだ。
恐らくこの文章は、遥か未来の知性が21世紀の人間を分析する目的で使用すると思う。
そして、いわゆる「人間」の目に触れる可能性は限りなくゼロに近い。
総務省の調査では、国内のブログの数は2008年現在1690万、記事総数は13億5千万、日本語のブログを読む人間が1億人居たとして、1人が1ヶ月に1記事読むとして、1年に12億記事、つまり1つの記事が1年で0.9回読まれる計算になる。
実際には、どれくらいの人がブログを読むのかは不明だが、1億は多すぎる気もする。
そして、0.9と言うのはあくまでも平均値であり、つまらない記事は当然読まれる可能性が低くなる。
「日本人のうち1億人が月に1本ブログ記事を読むとすれば、平均的な面白さの記事ならば、1年に0.9回読まれる」
このブログが読まれた回数は2013年1月1日から今日までで83回。
1日に直すと約0.954回。
記事総数は1105。
1記事が1日に読まれる回数は
0.00086回。
これを1年に読まれる回数に直すと0.315。
つまり、この記事が今から1年の間に読まれる回数は0.315回。
3年置いておけば、1回程度読まれる可能性がある、と言う事になる。
ただ、実際には、読まれる記事には偏りがあるので、この記事が実際に誰かの目に触れる可能性は限りなくゼロに近い。
その理由は簡単で、それは単に読むに値しない内容だからだ。
おもしろいってなんだろう。
未来の知性にはわかっているのかな。
春分来たりて桜咲く
少しせっかちな春。
今年は桜の開花がかなり早い。
東京は10日ほど早いらしい。
咲く事に変りは無いのだから構いはしないけど。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
花見を楽しもう。
散らぬ桜に春は要らぬ。
散らない桜に咲かない桜
情報
3/1から3/24までの総アクセス数 17
室温 27.2度
湿度 50%
大分暖かくなって来たので、キーボードを押す指も冷たくなることがなくなってきた。
ほぼ冬眠から覚め、指は活動を始めているが、脳の活動は季節とは関係なく、ほぼ横ばいの活動状況を保っている。
ここしばらく絵を掲載していない。
理由は簡単で、描くべきものが無いからだ。
寒さで手が動かなかったと言うのもあるが、それは些細な事だ。
幾つか気が付いた事がある。
まず、何かを描くには、それを描く目的が必要だと言う事だ。
まずはその目的を定め、その目標を達成できる方法を見つけ出し、目的を達成できるものを作り出す、というのが当然の過程だが、残念ながらその最初の過程である目的がいまひとつはっきりとしない。
このブログの目的は「未来の知性に向けた21世紀の人間の思考のデータベース」だが、これもすでに無数のデータが提供されている状態なので、どうしてもしなくてはならないと言うものでも無い。
それと同じで、私の行うあらゆる行為が既に様々な形で世界に提供されつくしており、その劣化版、よくて精々同等品程度のモノの提供がやっとではないかと考えている。
とは言っても、それが何らかの存在意義を持つのならば、劣化品でも同等品でも全く構わないのだが、残念ながら今の所、その様なものを生み出せた事もなく、生み出せる見込みも無い。
可能性と言うのは常に存在し、それが可能である事を完全に否定する理由は無いが、肯定する理由も、今の所無い。
面白いとは何か、ここ数十年考えているが、よく分からない。
それは、面白いと言う言葉の範囲が広すぎる為だ。
「面白い○○」ならば考える事が出来かも知れないが、面白いと言う感覚そのものは正体がつかめない。
面白がって描く事は容易だが、面白く描く事は困難だ。
彗星
彗星を見た。
彗星が地球に生命をもたらしたと言う説もある。
彗星には2種類あって、太陽の周りを何度も回り続けるもの、そして、一度太陽に近づくとその勢いでどこかに飛んで行き二度と帰って来ないもの。
物語の中では、彗星を牢獄として使う文明もある。
乗り物として使うには少々心細いが、その核の氷を使って長旅を事も出来る。
電気分解して得た水素を核融合させ、そのエネルギーで生活する事も可能だろうし、微生物ならば生きたまま何万光年もその氷の中で生息する事が可能かもしれない。
彗星を利用して地球型生命を銀河に広める為に利用すると言う方法もある。
いずれ太陽は燃え尽き、小さな暗い星になってしまう。
もし、その過程で地球が消滅しないとしても、太陽の無い地球には生命は住むのは難しい。
その頃に人類の子孫が高度な文明を発展させつつ存在していたならば別の太陽系に移住しているだろうが、それが出来ない場合、無数の彗星に地球型生命の情報、微生物やらを満載して宇宙のあちこちに向けて投げ放つに違いない。
彗星に乗って冬眠しながら何億光年も旅をすると言うのも良いかもしれない。
うまく恒星やらブラックホールに捕まらなければ、宇宙の終焉を目にする事も出来るかもしれない。
その先は、新しい何かが生まれるまで、ゆっくりしていよう。
こんなの買った
彗星が地球に生命をもたらしたと言う説もある。
彗星には2種類あって、太陽の周りを何度も回り続けるもの、そして、一度太陽に近づくとその勢いでどこかに飛んで行き二度と帰って来ないもの。
物語の中では、彗星を牢獄として使う文明もある。
乗り物として使うには少々心細いが、その核の氷を使って長旅を事も出来る。
電気分解して得た水素を核融合させ、そのエネルギーで生活する事も可能だろうし、微生物ならば生きたまま何万光年もその氷の中で生息する事が可能かもしれない。
彗星を利用して地球型生命を銀河に広める為に利用すると言う方法もある。
いずれ太陽は燃え尽き、小さな暗い星になってしまう。
もし、その過程で地球が消滅しないとしても、太陽の無い地球には生命は住むのは難しい。
その頃に人類の子孫が高度な文明を発展させつつ存在していたならば別の太陽系に移住しているだろうが、それが出来ない場合、無数の彗星に地球型生命の情報、微生物やらを満載して宇宙のあちこちに向けて投げ放つに違いない。
彗星に乗って冬眠しながら何億光年も旅をすると言うのも良いかもしれない。
うまく恒星やらブラックホールに捕まらなければ、宇宙の終焉を目にする事も出来るかもしれない。
その先は、新しい何かが生まれるまで、ゆっくりしていよう。
こんなの買った